期待、そしてあなた以外の人生

「お義母さん、前にも言ったでしょ」


「ごめんね。ちょっとかがむのがつらくてね」


 玄関には脱ぎ捨てられた靴が二足並んでいた。女はかまちに膝を乗せて、二足とも爪先がわを扉に向けて揃えた。夫が帰ると、それがさらに一足増える。それも同じように揃えることが、今から既に決まっていた。


 ――息子の教育上、良くないから。あなたたちのようにはしたくないの。


 入学式には、既に新緑が芽を出し始めていた暖かな春だった。ぞろぞろと校舎から入る親子連れ。どの親も裕福に見え、どの子も利発に見えた。

 義母そっくりに曲がった夫の背中をぴしりと叩くと、女は小さく、しかし低い声で「背筋を伸ばして」と囁いた。夫の肩が跳ねるようにきゅっと縮まり、勢いと共に背筋は伸びた。


 ――負けちゃいけない。引け目を感じさせちゃいけない。


 女は夫のことよりも、ただ息子のことばかりを考えていた。なにを望むかよりも、たったひとりの息子の将来の安定こそが全てなのだ。彼には夫のように安月給のつまらない仕事にだけはついてほしくはなかった。




「どうしてわざわざ私立になんて入れるんだよ」


 夫はろくに話を聞いてはいなかった。仕事から帰ったときのままの格好で、ソファで横になってテレビを見ていた。女の話を真剣に聞く様子はなく、聞き流していればいずれ諦めると思っているかのようだった。


「就職難の時代なのよ。一流大学を出てない人は、一流企業には相手にもされないんだから」


 だが、居間での話し合いに長くはかからなかった。夫はテーブルに置かれたグラスにあらたにビールを注ぐと、ちびちびと飲んだ。稼がない分、消費しない。それが夫の性分だ。


「お前がそれで良いと思うなら、そうすればいい」


 ――そのかわり、授業料は自分で稼げってか。


 つまり、パートを増やして稼ぐしかない。私立の学費を稼ぎながら夫と義母、息子の世話をするのは容易ではない。

 パートの時間を増やした。

 女にとっては、息子に自分と同じ轍を踏ませるわけはいかない、という気持ちもある。夫や義母への不快感は、ある種の同属嫌悪に過ぎない。つまりは息子だけが女にとっては特別なのだ。身をやつして働いてまでも、息子の未来を守りたかった。

 女は決意を固め、夫と義母に説明した。二人とも反対はしなかった。生活から余る部分のすべてを息子に費やし、未来に賭した。


 ——これでいい。息子がいつか、報いてくれるから。




「辞めたい」


「え?」


 夫と息子が同じ日に同じ言葉を吐いた。平日の昼間に家族が四人、居間に集まっている。

 義母は毅然とした態度で孫を守ろうとしているのに対し、夫は予想外の展開に拍子抜けしている。まだ幼い息子はと言えば、気まずそうに誰とも視線を交わそうとはせず、窓の外に見える街路樹をじっと見ている。蝉が鳴いている。葉が落とすのは、春のやわらかさを忘れた、硬質な輪郭をもつ夏の影だった。川面に浮かぶ花びらように、希望を淡い光のなかにいたずらに溶かしたりはしない。

 濃い緑が落とす陰影に、女は夏の終わりを見た。淵に上流からたどりついた花びらは、空よりもはるかに透明な紺色をしていた。


「なら、辞めればいいよ」


 女は言った。

 わかっていた。息子は、夫ととてもよく似ている。ダメだった。世代間を理不尽に繋いでく遺伝子の連鎖を断ち切りたかったのだ。女は他にもわかっていた。自分もまた、息子と夫とよく似ていた。

 本当に断ち切りたかったのは、自分の愚かさだったのだ。


「いいのかい?」


 義母が一番驚いていた。男二人は、今ここで起きていることが、自分には無関係かのように、うつろな表情で外を眺めていた。

 女が人生を賭した勝負は敗北に終わったらしい。理不尽を承知しながらも、まだ終わりではないと信じていた。人生に勝利というものがあるかは知らない。ただ、終わりがまだ遠いのであれば、可能性はあると信じるしかなかった。無意味に生きるには余生は長過ぎた。


「ええ、いいんです。私が働きますから」




「どうして、ここを選んだのですか?」


 ――とにかく仕事が必要だから。


「あなたくらいの年齢の方が職を探そうというのは、珍しいことだと思います」


 ――でも、ずっと子育てと家事をしてきたんだよ。


 癪だったが、感情を見せることなく微笑をたたえながら同意してみせた。今はなによりも仕事が必要だ。稼ぎこそが女を変える。一家の大黒柱になれば、今までの価値が百八十度変わるはずだ。

 女はそつなく面接をこなした。いや、そう見えるようにこなしたのだ。それだけ巧みに自らを装うことができるのであれば、どこで勤めても、それなりの水準で仕事を行うことができるのだ。


「それで、いつから来られますか?」


「今日からでも大丈夫です。なによりもまず、働きたいんです」


 本音だった。



 女が目を覚ますと、ひんやりと心地良い空気が部屋を満たしていた。

 秋。なんとなく、春以上になにかを始めるのには悪くない季節かも、と女は思った。

 義父の仏壇に手を合わせた。唯一の味方、唯一の話し相手だ。気付いたのは死んでからだったが。単なる義父ではない字の温もりを感じた。だからこそ、それに報いなければならないのだと思う。夫と息子に情熱がなくとも。


 ——ふふ。でもそれも、あなたにも責任があるんですからね。


 女は半ば妄想を生きていた。

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