揺れる自転車と過去

「けむし、落ちてくるかな」


 ――ひとりだけだと、すごく軽いもんだなあ。


 幼稚園の帰り道は、いつも桜並木のしたを通った。電動自転車の前かごの席には、今年五歳になった女の娘が乗っている。三人だった時はバランスを取るのも難しかったのに、一人減っただけで、ぐらぐらと揺れることが少なくなった。


「落ちて来ないと思うよ。けむし、きっといないから」


「センセーがけむしくるから、ちかよっちゃダメって」


「今時、防虫処理してない桜なんてあるのかな?」


「ボーチューシュウリ?」


 ——そっか、まだ五歳だ。


 娘は息子とよく似ていた。そしておそらく、自分自身ともよく似ている。女の母によく聞かされた幼少期の自分と重ねて複雑な気持ちになる。血は争えないのだ。




 セミナーに誘った八百屋の店主は、途中でどこかに消えてしまった。似た経験をしたもの同士、なにか深い、込み入った話ができるのではないかと期待した。ついでに、おまけしてもらえるようになるんじゃないかという打算もあった。


「これも、セミナーで買ったんですよ」


 十二万円の電動自転車は機能性に優れるのみならず、交通安全祈願の祈祷済みで、本来は十五万円のところを、三万円も安く手に入れた。

 ママ友、という体裁すら持たせてはもらえないが、女は図々しく会話に割り込むだけの肝が据わっていた。大切なものを失う以上に恐ろしいことなど、他にはありえないと知っている。


「これでもう、事故は絶対に起きないはずだから」


「ああ。十五万くらいなら構わないよ」


 夫は熱心ではなかったはずの仕事に打ち込むようになった。家のことに関心を持たなくなった。娘の世話はすべて女がした。


「同じの、あたし六万円で売ってるの見たわよ」「アハハハ、じゃああの人、騙されてるってこと?」「かわいそうよね」「ちょっと、頭があれね。変になっちゃった」


 ――全部聞こえてんだよ、クソが。


 そうして幼稚園の他の母親たちは女を遠ざけようとした。

 怖いものなどないのだ。一つを除いて、あとは平坦に続くこの道と同じ。バランスさえ崩さなければ、倒れることはありえない。




「あ、けむしいたよ!」


「え?」


 女は脇に自転車を止め、ハンドルをロックし、スタンドを立てた。


「ほら、あそこ!」


 娘を座席から引き抜いて立たせると、彼女は後方へと駆けていった。


「触っちゃだめだよ!」


「わかってる!」


 ――ホントだ!


 娘のあとを追いかけてしゃがみこむと、アスファルトのうえを黒いけむしが這っている。ところどころオレンジ色の斑点を背負い、長い毛はからだを大きく見せようと威嚇する猫のようだった。

 うねうねと体をくねらせ、木とは反対に進む。歩道のふたりは、車の行き交う道路を見た。


「かわいいねえ」


 娘は無邪気な笑みを女に向ける。似ている。娘と一緒にいる限り、永遠に過去に苛まれる運命であることを悟る。怖いもの、恐ろしいものは一つだけだ。だが、そのたった一つのことが、過去から未来に向かって長い影を落とす。愛おしいはずの娘が、にわかに憎たらしく思えた。


「でも、つぶされちゃうかもね」


 女はつぶやいた。

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