書けない傷つかない場所はいつも暗くて
昨日の夜から雨が降り続けている。
男は枕元のスマートフォンに手を伸ばし、時間を確認した。本来であれば一時間、あるいは二時間は早く起きる習慣だ。昨晩は帰りが遅かった。
テーブルには空になった缶ビールと缶チューハイが数本並んでいる。片付けようと順々に運んでいくと、二本、中途で残されたものがあった。あれ、と男は思う。同じような過ちを何度も繰り返してきたのに、なにも学んでいない。
「馬鹿ね。同じことの繰り返しじゃ、前に進めるはずがないのに」
昨日の女の言葉が脳裏をよぎった。
——そんなこと、俺だってわかっている。
パソコンを前にして指を動かそうとすると、自分のよく見知った言葉ばかりが並んでしまう。自分の実力の範囲を出ることがないのは当然のことではないかと反論したことがあるが、変化というのは常に、内部で先んじて生じているのだとさらに言い返された。
空き缶を片付け、男の習慣となっている朝のトレーニングを始めた。
筋肉を効率的につけるには、朝より夜のほうが良い。通っていたジムで言われたことがあった。
男が鍛錬を怠らない理由は、単に筋肉をつけるということではなく、肉体を痛めつけ、常に傷を体に持つことでしか、書けないものがある気がしていたからだ。心に傷を負うには、男は年を重ね過ぎていた。
引き戸の枠に手をかけ、足をさらに前に出し、腕に体重を預ける。広背筋がピンと引き攣るのがわかる。背中と腕に力をこめて、斜めになったからだを引き起こす。広背筋の上腕二頭筋がキュッと縮まる。
一回ごとに筋肉の収縮と関節のかすかな軋み、乳酸の溜まっていく感覚が生じた。細かな感覚を忘れないうちに、半ば汗をかいた状態で、男はパソコンの前に座る。
「真面目にならなきゃいけないって、もう気づいているんでしょう」
毎日のように習慣的に書き続けることはできても、自分が書いたものに目新しさを感じられなくなっていた。
書きたい。自然な感情に従って、ただ書けば良かった。出来上がった小説が人に認められるのが嬉しくて、もっと読まれたいと願った。新たに生じた欲に従って書いたつもりが、いつのまにか読まれるために、評価されることのために書くことしかできなくなっていた。
自分が自分の枠組みから出られないまま自分の模倣ばかりする。やがて誰も読まなくなるだろうことは目に見えていたし、男にとって執筆は、喜びも、むしろ苦しみすらも見いだせない、単なる習慣と化していた。
——これは、俺の苦しみではない。
「君はね、いつだって書かされてきたんだよ、多分。一番最初を除いてさ。だから今こそ真剣にならなきゃいけない。本当に大切なものは、情熱は、君とっての好きは、いったいどこにあるってのさ」
なにも生み出さないと知りながら女と会う。
長い間、友人とも恋人とも言いがたい微妙な関係を十年以上も続けてきた。それだけに、男にとって女の告白は晴天の霹靂だった。
「私、結婚するから」
「ああ」
なにを守ろうとしているのか、平然とした風を装ってはみたものの、次に継ぐべき言葉がなかなか出てこなかった。
おめでとう、そんな簡単な言葉のはずが、喉につかえて出てこなかった。
「……最近、書いてる?」
煙草の箱をトントンと二回叩くと、ん、と言って男の前に差し出した。男は首を振った。女はそれを口にくわえ、火をつけた。ようやく男は、女の煙草が以前吸っていたものと違うことに気がついた。
「煙草、変えたんだ?」
「言ったでしょ。私、結婚するの。これも今だけ、すぐにやめるつもり」
女はふーっと白い煙を吐き出した。チョコレートのような甘い香りが混ざっている。似合わないと男は思ったが、そんなことを言う筋合いも、もはやないのだ。
「ああ、おめでとう」
自分の意志とは、どれのことだろうかと男は問う。
ずっと持ち続けていた疑問だった。自分と他人を分けるもの、それは意志でしかないはずなのに、それすら他人の影響からは逃れられない。
書きたいという純粋な欲望を忘れた。人に認められたい。その欲が今、男に小説を書かせ続けていた。
目の前の女との関係が終わろうとしている。過去を人質にして、鋭い刃を突き立てられている。
——なるほど。
築き上げた関係が壊れて傷つくことを知っている人間は、そもそも深い関係を築こうとしない。二人の関係もまた、外から見れば大人同士の他愛無い遊びにしか見えないだろうが、浅くとも、時間を経て築かれた関係は、必然的に強固となる。それが今、壊されようとしている。
長い時間、共に過ごしたのだ。男にも、女の考えていることくらいわかった。
傷が、男に小説を書かせる。男にとって本物の、自分だけの苦しみが感じられる絶好の機会となる。女にとっては、小説を書くことこそが男の価値だった。それを、読んでいたかった。たとえ、他の男と結婚してまでも。
突然の幕切に、男は激しい動揺と共に、静かな興奮を味わっていた。敏感な女は肌で感じ、挑発するように言い放った。
「君がさ、本当に今この瞬間に書きたいものってないの?」
男は不自然に笑みを浮かべて、目の前の女を見た。
「書かされてる小説を読むと、読む方も読まされてるって思って不快になるのよね。読者を甘く見ないで。あなたの作品の薄さなんて、簡単に見透かされるんだから」
個室の引き戸が開くと、店員がビールジョッキを二つテーブルに置き、空のジョッキを二つ持って出ていった。男は白く結露した持ち手をおしぼりでぬぐい、泡がこぼれないように慎重に持ち上げた。
「それ、君の変な癖だよ。こぼれてなにがいけないっていうの」
そう言いながらも、女も不自然な笑みを浮かべていた。男は傷の代償として小説を書くとして、はて、女はなにを得るというのだろうか。
「……そうかもしれないね」
女の言葉に抗うようにゆっくりとジョッキを傾けると、泡と一緒にビールを流し込んだ。咽喉の奥で炭酸がはじけて、痛みに似た心地よい刺激を感じた。慎重にジョッキを傾けるのには理由がある。
ビールがこぼれることは問題ではなくとも、指先や咽喉や舌の神経に集中してこそ味わえる感覚を捉えきれないのでは、書くには不足している。足りない。泡の一粒ひとつぶが弾け飛ぶ瞬間の香りも感触もすべて言葉にする。目の前の女の潤んだ瞳の美しさも、個室の狭苦しさもかすかにしみついた油のにおいも、後から口に広がる口のなかの苦味すらも、全部ぜんぶ——。
男は財布から札を数枚取り出すと、テーブルの上に置いた。女は少し悲しそうな表情のまま、その様子を見ていた。
目の前の女の感じている苦痛も、男自身が感じている苦痛も、過去も記憶も、すべて書くための材料になる。意志がそこにあり、素材がそこにあり、書き方を知り、書くべきものがそこにあるなら、小説は自然と完成する。
——これで終わりだ。
男は立ち上がった。女も理解していた。視線も交わさないまま、引き戸に手をかけた。
男は振り返らなかった。
パソコンの画面をつける。男は昨日の夜のことを思い出す。男は次から次へと溢れ出してくる思いを一粒だって逃さないようにと、薄暗い部屋でキーボードを叩き続けた。
書き連ねた言葉の数々がばらばらとディスプレイからこぼれ落ちてしまう気がした。感じたばかりの新鮮な悲しみや苦しみが、底に沈んだ遠い過去や記憶を巻き上げて渦をなして、暗い夜の深くへと飲み込もうとしてくる。
嗚呼、と思わず声が漏れそうになるのを喉の奥にとどめて、胸にくすぶる吐き気にも似た自らの感情を穿つように観察する。
——飲み込まれてはだめだ、飲み込まれてはだめだ。
一晩のうちに書き上げた小説が、良い小説であるわけないことなど知っていた。だが、誰かに認められるためではなく小説を書いたのは、何年振りだっただろうか。
誰かに認められるため。誰かに認められるため。
——ああ、そうか。
完成した小説のなおしをする前に、男は立ち上がった。窓に歩み寄り、カーテンを引くと、朝の太陽の光が部屋を照らした。
——そうだ、ここからがまた始まりなのだ。
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