よいの孤独

 ――覚えていないって言ったら嘘になるけど。


 居酒屋は混雑していた。青年は顔なじみになった中年の男と、日々のニュースについて語らっていた。語らう、といってもふたりとも特別な意見を持っているでもなく、解説者がテレビで述べていたこと鸚鵡のように繰り返すか、ほとんど無関心を示すかのどちらかだった。

 そうして無為に過ごすことを、ふたりは心地良くすら感じている。カウンターであいだに一席空けて、たわいない言葉を交わすだけの関係。名前も知らない、街で会ってもきっと挨拶もしない、ここだけの関係。ちょうどヒトの体温とおなじ温度の湯に浸かり続けるような、麻痺してしまうような関係。

 動かない。変化がない。もしかしたら生きていないかもしれない。居酒屋にとってふたりは、ちょっとした置物のような存在だった。


 ――まあ、散々な体験だったな。


 男と他愛のない会話をしながらも、青年は過去に思いを馳せていた。数年前まで付き合っていた彼女のことだ。なのに、頭に浮かぶのは、いつだったか、かかとを傘で突かれた記憶だ。

 乗り換えの駅で歩いている時のことで、後ろからかかとを傘で突かれた。二人の高校生のどちらかが突いたらしいのだが、「傘蹴られたんだけど」と言っていた。歩いていただけの自分のかかとに後ろから傘をぶつけられて、どうしてそれを「蹴った」ということなどできるのだろう。

 青年は、自分が見えている世界とはまるで異なる、別の世界が、見えない世界がここに薄く重なっているような気がした。そして、彼女はおそらくこちら側ではなく、あちら側にいるのだと思った。


「脈絡なんてどこにもないものだろう」


 男が三杯目のビールを空にした。声に微かに怒気を孕んでいるような気がしたが、男は飲むと口調が強くなる。今日も少し飲み過ぎただけだろうと思った。


「人を殺すのに理由なんていらないってことですか?」


 青年は問う。他愛のない会話は特別な意味も持たずにするすると通り過ぎていくと思っていた。


「違う。そんなこと言ってない。人が死ぬのに、理由なんてないってことだ」


 男はさらに声を低くして言った。

 コトンと男のまえに静かにビールが置かれた。暗黙の了解、阿吽の呼吸。三杯目のビールに口をつける。飲み過ぎたと自覚したのか、男はペースを緩めた。


「そりゃ、誰だっていつかは死にますからね」


「違う。だから、そういうことを言ってるんじゃないんだ」


 ブルッとスマホが震えた。青年は通知だけ見て、開くことはしなかった。


 ――思い出そうとしているのに、思い出せないのはどうしてだろう。


 思い出すことができたとしても、それはほとんどどうでも良いことばかりだった。たとえば、料理の味がちょっと濃かったこととか、コンビニに飲み物を買いに行っただけなのにいつのまにかふたりで電車に乗って梅の花を探していたこととか。デートの帰りにくだらないことで喧嘩して、帰ってから電話で仲直りしたこととか。


「ねえ、あなたってさ、ふたりの未来とかそういうこと、考えたことないでしょ」


 ——あとは、思い出したくないこととか。


 青年はジョッキを空にした。コトンとまえにビールが置かれた。ここにも暗黙の了解、阿吽の呼吸。

 店主は特にふたりを気遣っているのか、全体に対して均一に意識を配っているのか、よくわからない。過剰な洗練というものもあるのだな、と青年は思った。


「今日はおごらせてくれ」


 男は珍しく殊勝な面持ちで、からだを開いて青年に向き合った。


「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、ごちそうになります」



 男が妻を亡くしたという話を聞いたのは、男からではなく、店主からだった。青年は同情したわけではない。大切な人を亡くすことを、青年はまだ漠然としか想像できなかった。

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