クロノスタシス
「いや、痛い、放してよ!」
――俺、なにしているんだろう。
男が握る腕を放すと、女は逃げるようにホームを駆けていった。周囲の視線が集まるのを感じた。高校生が半分笑いながらちらちらと男を見て、スマホになにかを打ち込んでいた。
「なに見てんだよ」
自分の言葉に男は驚いた。
高校生は女と同じ方向へ足早に駆け、すぐに人混みに紛れて見えなくなった。どっちにしろ、後を追いかける気になどならない。終わったことなのだ。
「……くそ! なに見てんだよ!」
ひとり残されたホームで叫ぶ声すら、反対のホームに到着したばかりの電車の音にかき消されて、男にはなにもかもが無駄だったように思えた。叫んだことも、女との関係も、過ごした時間も。
時計を見た。
動いていた時間が一瞬だけ止まって、また動き出した。
自分だけがこの時間に置き去りにされている。誰かが蔑みや嘲りとともに見ていてくれた方がましだった。澱んだ空気にからまり身動き取れないまま、暗い夜に沈んでいく。生きるとは流れることなのだろうか。
こみあげる吐き気をこらえながら男は歩いた。トイレは遠い。だめだ。ホームの柱の脇に嘔吐した。
髪を切った友人の顔が、どこか変わった気がした。友人と話すのは、なにを変えようとしたって、自分たちには変えられないということばかりだった。それが、なにかが変わってしまった。
自分がまわっているのか、世界がまわっているのか、ただただ目がまわっているのか、男には見当もつかなかった。
「俺も、髪切ろっかな」
抗う必要を感じたゆえに出た言葉だったが、友人はあっさりとそれを否定した。
「やめときなよ。長い方が似合ってるよ」
あるべき場所、あるべき姿、男にとってふさわしいあり方が、今なのだ。
男はそう言われた気がして少しやきもきしたが、友人は何処吹く風だった。悪意がなくとも人を傷つける言葉など有り余るほどあるのだ。変えられないからなにもしない男もまた、なにもしないことで誰かを傷つけていることもあるのだ。
人は愚かだ。それでもなお、人を求めている。男は胸が苦しくなって手でおさえると、腕時計が目に映った。
曽祖父の時計をもらったのは、男が家を継ぐからだった。東京に出てきて知ったことだが、都心部で暮らす人は、家や家名はそれほど重要ではないらしいということだった。不思議だった。あれほどまでに重く感じていた家が、東京にはないのだ。
赤茶色の革のベルトは、細くやせこけた老人の腕には似合わない。祖父も父も着けることのなかった時計を、自分だけが着けるのは気が引けた。それでも、東京にいるあいだならば、その時計は重くはならない。
「古い時計ってアンティークものってことでしょ。結構高価なんじゃない?」
「値段とか、そういう問題じゃないよ。形見だから」
女と一緒にアンティーク時計専門店に赴いた。提示された価格は六十万だった。
主人いわく、修理しても動くかわからないし、修理に最低でも十万はかかるとのことだった。
今すぐ置いておくなら、おまけで六十五万までなら出す。との提案に色めき立ったのは、女だった。
「ねえ、あたしたちの関係って、なんなんだろうね?」
女はなにかを仄めかしたが、男はそれに気づかぬふりをした。
たった六十万とちょっとで手放せるほど軽くはない。即座に結論は出せず、六十五万は諦めた。女はすでにそのふところに六十万をおさめたつもりらしかった。腹に据えかね、飲み屋で口論になった。
「お客さん、良い時計持ってるね。このままでも二百は下らないね。オーバーホールで四万ってとこかな。来週とりにおいで」
別の時計屋に預けて、一週間後には男のもとに時計が戻ってきた。危うく騙されるところだった。腕に巻いてみると、しっかりと針が動いていた。だが、曽祖父はもういない。もちろん女も。
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