誰かそこにいますか
「洗濯しといてよ」
頼んだところでやってくれるわけがないと知りつつも、万が一を期待し、女は何度でも頼んでしまう。男の「ああ」という返事を聞いて、すぐに後悔するのも知っている。ふたりにとってそのやりとりは、行ってらっしゃいのキスと同じくらい習慣にのっとった挨拶のようなものと化していた。
「あの人、ほら三丁目の。お気の毒にねー」「でもねえ。最近はそういうのも多いから」「あんまり急だったものだから」「急っていっても、ずっとひとりでしょう」
ママ友は皆ひとしく噂話が好きだ。女も例外ではない。ローカルゴシップだけが楽しみ、というほど貧しい生活をしているつもりは毛頭ないものの、生活にいくらか刺激を与えてくれる噂には感謝していた。
「また、どうして?」
公園の入り口に立って話していると、誰もなかに入れない。そとにも出られない。女が三人、ケルベロスのように立ちはだかる。死者だけは、たやすくそこを通り抜けて過ぎ去った。
「あら、こんな時間。そろそろ行かなくちゃ。旦那が、ね」
ひとりがそう口にすると、それを合図にそれぞれが家に帰った。
孤独死の話など珍しくはない。旦那も子供もいる自分には無縁の話に思えた。それなのに、いつものくだらない噂話とは異なり、胸に冷たい感触が残り続けていた。
「洗濯、しておいたよ」
帰るのを待ち侘びていたかのように、リビングの扉のそばに男が立っていた。
「え?」
女はすぐに洗濯機から濡れたままの服を出した。臭う。洗剤を入れなかったのだろう。当然、柔軟剤も使っていない。洗濯もできない男と結婚したこと、その男に選択のしかたを教えもしなかったことを後悔した。
「洗剤と柔軟剤、ちゃんと使った?」
「ああ。だってそれ、全自動だろ?」
三丁目のあの人のことが頭から離れなかった。女は話に聞いたことがあるだけで、一度も会ったことはない老人だ。それなのに、どうしたって頭から離れない。男のせいだと思った。
また洗濯をしなきゃならない。
「ただいま」
娘の声で機嫌が悪いことがわかった。
「おかえり」
「なに、また魚なの?」
理由もなく不平を垂れるのは、中学に入ってから一貫している。
「またって、前に魚焼いたの先週の月曜よ」
「よくそんな細かいこと覚えてるね。お母さんって、家事のことしか頭にないんでしょ。あたしご飯いらないから」
――ホントにホントに、なにもかもが無意味。
「お母さん、なんでお父さんのパンツと一緒に洗濯するの? 別にしてって言ったじゃん。なんで先週の月曜に魚を焼いたことは覚えてるのに、そんなことは忘れちゃうわけ」
——なにもかもが、どうでもいい。
「どうしようもなかったんだろうね。ひとり。ひとりきりって、怖いわよね」「そうは言っても、なにかできることがあったんじゃないかしらね」「なにかをするってことすら、忘れちゃったんでしょうね」「みじめな気持ちになったんでしょうね」「みじめ、かあ」
どうしたって知らないあの人の死が頭から離れない。男のせいだ。娘のせいだ。そうだ、三丁目の老人は孤独死だったのだ。
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