いつまでも増えない重み

 男は体重計に乗ると、ゼロ、コンマ、イチで、トンの単位が使える領域に至ったことを知る。

 ゼロ、コンマ、イチ、ニ、ヨントン。その重量から、一週間やそこらで百キロに到達したとは考えられない。一か月、あるいは数か月前には、男はすでに分水嶺を越えていたということになる。

 ずっと身体のうちがわにぽかんと穴が空いているような気がしていたのに、体重だけが不思議と増えていった。空虚さと体重はむしろ反比例しているのではないかとすら思えた。食べれば食べるほど、満たされるのとは程遠い虚しさがいっぱいになる。重さが足りない、重さが足りない。放っておけばたちまち身体が浮いてしまうほど存在が軽く感じられたから、ただ食べたのだった。

 男は体重計からおりると、側面の注意書きを見た。


『最大計量150㎏』


 ――まだ大丈夫。まだ大丈夫。まだ大丈夫。




「ああ、でも、おばあちゃん喜ぶから」


 ――知るかよ。


 母の願いを断ったことはなかった。働いていないのに断る理由がなかったし、実際に母と祖母には世話になりっぱなしなのだ。邪険にするほどの気力もない。惰性で生きているその勢いのまま、日常を回転させるだけだった。


「早めに迎えにいってあげてね」


 ああ、と男は低い声で答え、頷いた。

 六年間使っているリュックサックには、自分でも何が入っているのかもはやわからない。中身を全部出してみることなどなかった。入れ替えることもない。ところどころ擦り切れていて、見た目は悪い。それでも、いつも背中にぴったりおさまっていた。

 大きくなったはずの背中にも何故かぴったりとおさまる。リュックサックと共に生きてきた。中身を把握してなくとも、大切な体の一部だ。そこには確かな重みがある気がした。

 車のエンジンをかけた。冬のトイレのように一度ぶるっとふるえてから、キュルキュル高い音で鳴く。

 自分に似ているようで無様だ。情けない、と男は思った。


「じいちゃんいなくなってから、ばあちゃんむしろ元気じゃねえか」


「そう見えるようにふるまっているだけでしょう。みんなを気遣ってくれてるんだよ」


 ――くそじじいが。ばあちゃんひとり残して逝っちまいやがって。


 いつものごとく、国道は混雑している。五分ほど走って、すぐに脇道に逃げた。遠回りでも、車を走らせ続ける方が気が楽だからだ。信号で止まったまま、一向に車が進まないのは耐え難い。

 小さい頃よく遊んだ公園のまえを通る。夕暮れの淡い光の中で、ブランコが揺れていた。その少年が、遠い過去の自分のように思えてくる。母がいて、父がいて、祖父がいて、祖母がいた。幸福だったはずなのに、どうして失われてしまったのだろう。考えても答えは出そうになかった。


「あら、こんばんは。今日はお孫さんがお迎えなんですね。良かったですね」


 担当のスタッフが、男にとも老婆にともわからぬ微妙な角度で言った。男はごまかすように視線を逸らし、施設の入り口をぼんやりと見た。自動ドアが開き、閉じを繰り返していた。夕方は人の行き来が多かった。

 老いさらばえた女の、かつて男が眠れぬほどの恐怖を覚えたあの般若のような形相は、もはやどこにも見られない。ただ穏やかに、菩薩のような笑みを浮かべている。怖くて優しい祖母。祖父だけが、簡単に彼女を笑わせる手段を心得ていた。


 ――くそじじい、そばにいるんだな。くそが。


「いつもありがとうね」


 祖母を乗せると、男は車を出した。散々男を怒鳴り散らした祖母の姿はなく、祖父と共に歩いているときの、あの穏やかな微笑。


 ——ばあちゃん置いてきぼりにしやがって。


「おかえり」


 家に帰った。珍しく母が出迎えた。祖母はボケているのか、意識がはっきりしているのか、区別がつかない。ただ、はっきりとした口調で言った。


「ただいま。いつもわるいね。今日はすごく調子がいいんだよ。この調子なら、もう十年は生きられそうだね。すまないねえ。年寄りは、長生きすればそれだけ迷惑がかかるわね」


 ハハ、と中年の女は笑った。否定はしない。三世代が一堂に会した。男の祖父も父も、そこにはいなかった。

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