遠くの家
「いらっしゃいませー」
機械的に繰り返されるセリフはいつしか板についてきた。自動ドアが開くと同時に、男の感覚はどこかでドアと繋がっていて、自分がまるで傀儡のように、口から言葉が吐きだされる。
「いらっしゃいませー」
マニュアルに沿って決められた対応をする。客も皆同じ顔をして、自動販売機のボタンを押すかのように、冷ややかに接する。
「ふたり。フリータイムで。飲み放題」
「かしこまりました」
レジスターに情報が入力された。数字と文字の羅列が吐き出された。発効したばかりの伝票ですら、男の手には温かく感じられた。
部屋番号をつげ、バインダーに挟んだ伝票を手渡した。男の洗練された動きには一切の無駄はなく、考えることなく一連の動きは出力される。
――AI。
感情を排除するわけではなく、感情も仕事というまな板にのせて、一緒にさばく。密かな恍惚が胸を満たし、さらに研ぎ澄まされた洗練へと至る。数値化できないものなどこの世になにひとつとしてないのだ。
知性が築き上げた要塞には、僅かな隙もないように思っていた。
「え、どこ出身なんですか?」
「んー。北の方。東方制圧」
制服、と言っても個人で用意するワイシャツと黒のチノパンなのだが、それを脱いだ途端にスイッチが入れ替わる。というより、男のスイッチが切れる。
仕事以外のすべての会話は右から左へとすり抜ける。機械として機能しない状態は、男にとっては人間に戻る唯一の機会であるはずなのに、するりと手からこぼれ落ちてしまうのだ。
だが、女の言葉だけが左の耳たぶあたりにかろうじて引っ掛かって、ちらちらと耳を揺らしていた。
「東方制圧?」
女は薔薇色のほほをもごもごと動かしながら男を見た。休憩室のテーブルには、鮮やかな色のみすず飴が置かれていた。誰かのお土産だった。
「ウラジオストクってさ、東方を制圧せよって意味なんだって。知ってた?」
「ウラジオストク出身なんですか?」
「んなわけないでしょ」
澄んだ夜のような女の声は、男の耳たぶを心地よく震わせる。
「それは、そうですね」
女は先に休憩室を出た。
帰り道は明るい道を選ぶ。遠回りのコンビニのある道だ。太陽のしたを歩かない分だけ、せめて少しでも明るい道を歩きたかった。
ある日、前を見知らぬ女が歩いていた。駅から十分ほどの道を、ずっと同じ道を歩いた。追い抜こうと歩みを速めると、逃げるように女も歩みを速める。あきらめてゆっくり歩くと、女も歩みをゆるめる。埒が明かない。
仕方なく女のあとに続いていく。女が電話で話している。どうやら男を警戒しているらしかった。
家に着くと、自転車に乗った警官が立っていた。
「ちょっと、お話聞かせてもらってもいいかな」
悪いことなどなにもしていないのに警察官に話しかけられると、不思議な緊張と高揚感がこみあげてくる。だが、頻繁に味わいたいものではない。
だから、遠回りでコンビニのある明るい道を通るのだ。遠回りになるうえに、いつも帰り道にコンビニがあるというのは考え物だ。買うものなどなにもないのに、意味もなく立ちよってしまう。
「あ、いらっしゃいませ」
店員も男の顔を覚えていた。そうか、と男は腑に落ちた。
あのときの女も、警察官も男にとっては日常をかき乱しうる存在なのだ。かわり映えのしない平坦な日常を壊してくれるなにかを、男は求め続けていた。
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