輪を描くしずく
「その足、ちょっとどけて」
男はいわれるままに組んでいた膝をほどいた。狭いダイニングで、男と冷蔵庫の間にからだをねじこむようにして、扉を開けると、女はそこからプラスチックの箱を取り出した。
「そういえば、今年のトリエンナーレ行くっていってたけど、ホントに行くの?」
冷凍庫から這い出した冷気が、男のふくらはぎに触れ、一瞬で消えた。テーブルのうえのグラスは汗をかいている。
真夏日に外に出る気など起きなかったが、ふたりで部屋で過ごすのはなんとなく窮屈に思えた。
「うん。お金まあまあ貯まったし」
女は対面に座ると、パイントのアイスクリームをスプーンでたっぷりすくい、大きく口をあけた。銀色のスプーンは綺麗に舐めとられ、ダイニングのダウンライトの光を跳ね返していた。
「でもさ、雨かもよ、時期的に」
「別に、雨でもいいよ。どうせ長距離バスだから」
口たっぷりにアイスを含んでいたせいか、女の声はいつもより冷たく感じられた。
――雨なのにやめなかった。やめさせればよかったのだ。
駅まで歩くのに傘はいらない。大雨なら別だが、ちょっとした雨ならささないほうがずっといい。
すれ違う誰もがいぶかしそうにふりかえるのも気にしない。濡れればいい。男はチッと舌打ちをした。女がふりかえった。男は気にしない。
「二輪車はスリップしたら終わりだからね」
「平気よ。私はそんな簡単に死なないから」
「でも、危ないと思うけどな」
「恐れていたらなにも成せないでしょ。部屋から一歩もでないわけにはいかないんだから、生きなきゃ」
——やっぱり、似ている。
男の脳裏で、記憶と現実が交差する。少し強引で、勇敢で、いくらか粗野で、男には欠けた性質を併せ持っていた。男はそういう女に不思議と惹かれる。
「去年北海道を走った時もね、すごかったの。峠道でね、擦れ違う車も二輪もゼロ。ああ、世界にわたしひとりだけなんだって、そう思ったの。だから今年も——」
――僕は今になって、世界に自分ひとりだけなんだって、思うよ。
女は半パイントほど食べたアイスをテーブルに置いた。水滴が垂れ、ガラスの天板のうえに輪を描いた。
からめとられそうになりながらも、男はこらえる。ティッシュで溜まった水を吸い取った。一枚では足りず、何枚も引き出した。拭き終える。なかのアイスは半分ほどとけている。蓋をして冷凍庫にしまった。
「あなたも行く?」
女は片肘ついてテレビを見ている。男には、それが意図をもった質問なのか、ただのひとりごとなのかわからない。
雲が晴れ、窓から日がさした。休日の午後は気怠く、なのに不思議と忙しなく過ぎていく。小さな部屋には、男の探している時間はありそうになかった。
「たまには行こうかな」
「あはは、たまにはって、初めてでしょう」
「あはは、そうだね」
男の声はかすれていた。
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