卵と失われたものと男と
――奪えばいい。
男の理屈は単純だった。
冷蔵庫を開けると、今時珍しい牛乳瓶を取り出し、一気に飲み干した。口の端からわずかにこぼれた液体を、首にかけたタオルで拭った。外に干さなかったからか、顔を近づけると少しにおった。
「今日、お豆腐安かったのよ」
「そうか」
男は一時的に視線を落として女を見たが、一息ついてから空き瓶をシンクの中に置き、缶ビールを取り出した。
三パックセットの小さな絹ごし豆腐が七十円。
女はスプーンで真ん中をすくって、そのくぼみにめんつゆを垂らした。かつおぶし、ねぎ、てんかすがあればいいのにと思いつつ、アイスクリームでも食べるように、豆腐をゆっくりと口へ運んだ。
――そう、奪えばいい。でも、誰から?
なにを犠牲にしたのだろう。なにを手に入れたのだろう。暴力と共に育ち、強さだけを求めてしのぎを削り、生きてきた。目の前には、気の弱そうな痩せ気味の女が座椅子にだらしなく座っている。
考えるのも面倒だ。男は首にかけたタオルと下着一枚きりで女の隣に腰をおろした。テレビでは、見たことはあるが名前の知らないお笑い芸人が大きな声を張り上げていた。
——奪えばいい。でも、いったいなにを?
列に並ぶ大勢の人を差し置いて横入りすることに、男は微塵も抵抗を感じなかった。
男が小太りの女に軽く肩をぶつけ、睨みつければ、それでことがおさまる。おさまらない時は、相手が痛い目を見て終わる。それだけのことだった。
帰り道の線路脇に咲くタンポポを見つけると、根元から千切った。花を買ったことはないが、花をやったことはある。
電車が走り抜けた。風のように駆け抜けた電車の誰かと一瞬だけ目があった気がした。そんなわけがない。男がまた足もとに視線を落とすと、引き千切ったはずのタンポポがそこにある。
また千切る。するとまた、電車が走り抜けた。誰かと目があった。繰り返される。男の昨日と今日、明日がそうして繰り返される。走り抜ける電車から、見下すように誰かが男を見ている。声が聞こえる。
「大切なものがなにか、わからなくなったんでしょ?」
――大切なものなんていらねえっての。持ってたって奪われるだけだろ!
「ねえ、豆腐。食べる?」
「いい。いらない」
平日昼間、午前中の出勤ラッシュが終わった後。そこには他には見られないような、洗練された気怠さがあった。アルコールはこの時間にこそ飲まれるべきで、煙草とコーヒーの組み合わせはこの時間にこそ与えられるべきで。つまりはそういうことだ。
男はひとり、ビールを飲みながら思う。
「あら、いけない」
女は男と入れ替わりに立ち上がった。はっと唐突に、目を覚ましたかのようだった。
「え?」
男の世界が大きく揺れた。閉じ込められた。火が近づいて来た。前にもおなじ夢を見た。夢、違う、記憶だ。
目を閉じた。聞いた話がほとんどだ。男は姉のことをはっきりとは覚えていなかった。
「生は危うき累卵の如く、白く清く、それでいて脆いものだもの」
「はあ。なんの話だよ」
男には時々こうして、女のいうことがわからなくなる。女は気にもとめずに、ふわふわと浮いて空に消えてしまいそうに、地に足のつかない様子になる。だから男は、不意に姉を思い出したのだ。
「スーパーに行ったのに、つい安売りの豆腐に気をとられちゃった」
「豆腐に取られたって、なんの話だよ」
「そんなこと言ってないわよ。だから卵を買い忘れちゃったの」
——そんなもの。
また買いに行けばいいといおうとしたのに、言葉が出なかった。そうして買いに行った卵は既に、女が買おうとしていた卵とは同じものではありえないのだ。男はそれを理解してしまうと、ひどい吐き気に襲われた。
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