あさのあめにぬれる
「昨日の夕立、すごかったよ。おかげで洗濯物が二度手間だよー」
女の言葉がうまく理解できなかった。英語で話すことが少なくなった今でもまだ日本語には不慣れで、意味がはっきりととらえられないことがあった。
「ユウダチでニドデマ?」
男が聞き直すと、女は表情を変えずに抑揚のない調子で答えた。
「そう。夕立で二度手間」
英語で話す時の女とはまるで異なる、平坦で棘のない声だった。日本語だとそんな風に話すなんて、結婚するまで気がつかなかった。
日本で暮らすにあたって日本語を学ぶ必要性を感じていなかったが、いざ暮らしてみると、英語が通じる人の方が少ないことを知った。学ばなければ生活が不自由になる。男が勉強を始めてみれば、女と日本語で話す機会が増えた。
母国にいたころは単にアジア人だとしか思っていなかった女が、日本人であることを思い出した。
――どうせ、詳しくは説明してくれないんだろうな。
感情や意思を明確な言葉や態度で表さないのは、この国では慎みや奥床しさとして尊ばれている。
男は思う。——その本質は、言語や行動によるコミュニケーションを怠る単なる無精ではないか。摩擦を恐れるが故に遠回りをして、いつまでもたどり着くべき場所に着かないのではないか。
日本語を使うようになって女との距離はいっそうと近くなると期待したが、いつのまにか以前よりも遠い存在に思うようになっていた。
路上に横たわる青年に声を掛けると、体の向きを変えて、嘔吐した。
「アーユーオーケー?」
――日本人は、とても親切だから。
周囲の人たちは、遠巻きに様子をうかがっていた。
週末にもなるとホームレスでもない若者が渋谷や新宿の路上で寝そべっているのが日本の日常茶飯事だと知ってはいたが、ベッドタウンのこの街では珍しいことだ。誰かその青年のことを知っているのではないかと、顔を振ってあたりを見回してみたが、距離を縮めるものは現れなかった。
白人が酔っ払って路上で寝そべる青年に声を掛けている。異常な光景に好奇心を誘われる人々だったが、助けようと思うものは一人もいない。男は胸につかえるものを感じた。
青年は再びえずいた。
――日本人は、とても親切だから。
息子が生まれた。母国の両親にはすべて事後報告だった。
国に未練はなかったものの、親しくしていた友人を忘れたわけではない。一番伝えたい従兄は、去年の暮れに銃で打たれて死んだ。母から訃報を聞いた。アルコホリックで半ば路上生活に近い状態から、教会に通うようになってからは少しずつだが働くようになった。だが、再び転ぶのは簡単だったのだ。
知らない土地で、近しいはずの従兄がいつしか、遠い存在になっている。死を悼むことすら難しいほどに遠い国で思い出す顔に、薄い微笑が浮かんでいる。
ここに住む人々は親切だと聞いた。犯罪が少ない国だと聞いた。路上で強盗に出会うこともなければ、銃で打たれることだってない。そんな噂で聞いただけの世界と現実はかけ離れていて、ふと女のことを思う。最も近くにいて欲しい人すら、今では遠ざかっているのだ。
「……うう。ああ、あいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ。のーいんぐりっしゅ。そーりーそーりー。おーけー。おーけー」
吐瀉物とアルコールのにおいで、飲み過ぎたのだとすぐにわかった。自業自得だ。自己責任だ。ワカゲノイタリというやつだろうと男は納得した。
男の国でも同じことはある。だが、苦しむものを目の前にして無関心ではいられなかった。あるいは、誰かを助けることで、自分が誰かとまだ繋がれることを証明したかったのかもしれない。
似ても似つかない青年の姿がなぜか従兄と重なった。
「日本人は別に、親切じゃないよ。ただ、他の人と合わせるだけ。だから、だれかが大きな声で協力しようって言うと、みんなは協力し合うの。優しくしようって言えば、優しくしあう。みんなが無視していれば、おなじように無視する。ただそれだけ。自分がないのよ」
——そうだ。日本について、聞いたことがあったのだ。
男は母からのテキストで報告を読んだだけだ。
従兄はダウンタウンの路地で見つかった。大通りはまだ人が多く行き交う時間帯だった。走り去った男を見たという証言があったらしいが、今のところまだなにも手掛かりはない。
新たな手掛かりが見つかることもない。アルコホリックで路上生活をしていた従兄の死が、重い意味を持つ国でもない。肌の色の違い。生まれた国の違い。宗教の違い。言語の違い。国籍の違い。文化の違い。従兄の死はありふれたものとして処理されたのだ。
雨はやんだ。まだ、遠くの空では降り続けていた。
「ユウダチはなんのこと?」
「夕方に降る、激しい雨のことだよ」
――あれ、教えてくれた。
「じゃあ、朝に降る激しい雨を、アサダチと言うの?」
「アハハ。昨日の朝立、すごかったよ。おかげで洗濯物が二度手間、か。まあそれも言うかもね」
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