まだその音が聞こえている


「誰も僕の話なんて聞いてないんだよ」


 男の首元に手を伸ばすと、曲がったネクタイをなおしてやった。

 男もそれが当たり前だとでもいわんばかりに、フンと鼻を鳴らした。鍵と定期券を女から受け取り、しかめっ面のまま家を出た。

 いつもとなにも変わらない。男の朝の不機嫌すらやり過ごしてしまえば、一日は平穏に過ぎていく。女には、幸福に生きるためには十分すぎるほどの自由な時間とお金があった。




 ――カン。


 中高共にスポーツなどには興味がなかった。小学生の頃にピアノ教室に通っていたが、中学に入るのを契機に辞め、吹奏楽部に入部した。

 高校の吹奏楽部で高校野球の応援に行かされるのだと聞き、コンクールではなく、高校野球の応援にこそ主眼を置いて入部する人がいることをはじめて知った。文化系と思って高を括れば、馬鹿みたいなしっぺ返しを食う。真夏の太陽のもと、大きなホルンを抱えて演奏などしたくない。

 と女は退部するかしまいか迷ったが、それ以後の学校生活のことを思えば、やすやすと辞めることなどできなかった。


 ――カン。


 三十を過ぎた今となっても、相変わらずスポーツには興味がなかった。

 壁一面の大きなテレビで、甲子園の映像が流れていた。見ているというより、ただ流れているという感覚だった。外の鳴くセミの声にまぎれ、時々カンという間の抜けた音と、ワッという歓声が聞こえてきた。

 冷房のよく効いた室内にいるのに、背筋にじわりを汗がしみる気がした。


 ――カン。ワッ。


 相変わらず、というよりむしろ無理やり応援に行かされたことで、どちらかといえば野球は嫌いだった。それも、応援虚しく野球部は初戦敗退。強豪校ならまだしも、弱小ならば、わざわざ応援に出ることなどなかったはずなのに。


「惜しかったね」「あと少しだったのにね」「頑張ってたよね」「まあ、一生懸命あたしたちも応援したし」「すごかったね。かっこよかったね」


 負けてありがたかったが、そんなことを口にできない雰囲気だった。初戦敗退に呆れはしたが、二回戦、三回戦と続いていくことを思えば、半端に勝ってしまうよりかはずっとましだったのだ。


「どこがだよ。初戦敗退だろ。弱いから負けたんだろ」


 ――なんでこいつ、吹奏楽部なのにこんなに日焼けしてるんだよ。


 怒気の孕んだ声をあげる少年を見た瞬間、最初に頭に浮かんだのは、そんなことだった。

 学校指定のポロシャツを肩までまくりあげ、ついでにズボンも膝までまくり、したに覗くふくらはぎは運動部のそれと同じく真っ黒だった。グラウンドを駆け回る白いユニフォームの少年たちと、スタンドでバスドラムの横に立つ彼とでは、どっちが夏の主役なのかわからない。額を汗に濡らしていた。


「あいつ、クラブチームでサッカーやってるんだって」


「ふーん、なんで高校でやらないの」


「セレクションで落ちたかららしい。あったじゃん、一年の春に」


「そっか」




 テレビの前のソファで横になっているうち、気がつけば十二時を回っていた。

 買い物へ出た。マンションの中央にある広い公園で、少年たちがリフティングしていた。球遊び禁止の公園でこじんまりと練習をするには、あれくらいのことしかできないという。

 野球よりかは、サッカーが好きだな。あいつ、もう蹴れないけど。

 女は二十年近く前のことを思い出して、気持ちがちぐはぐになった。野球を見て、サッカーで挫折した少年が浮かんできたのがわれながら滑稽だと思い、ハハッと笑い声が漏れた。

 あわてて周囲を見回して、誰にも見られていないことを確認した。

 公園で遊ぶ少年たちを見て、声を漏らして笑っている中年女など、どう見ても不審者だ。だが、あれくらいの子供がいてもおかしくない年齢ではないか。そう思うと、女はもう一度笑いそうになった。




「ただいま」


 夕方になって帰った男は上機嫌だった。大学での授業の感触が良かったらしい。先週の授業からまる一週間、愚痴をこぼし続けていた。それも終わる。


「今はまだ正式な職を得るには遠いけど、近いうちにもうすこしまとまった枠がもらえる。そうしたら、こんな場所じゃなくて、もっといい場所に住める。子供の声も聞こえないような、静かな街に」


 ニュースで甲子園のハイライトが流れていた。


 ――カン。


 乾いた音。懐かしい音。思い出すのはいつだって、額を汗で濡らした、野球部よりもずっと日によく焼けた少年の、悔しそうな顔だ。チッと舌を鳴らして帰った夏。それから半年後、君はサッカーをやめた。


「だから、来年の春に引っ越そう」


「ええ、そうね。うるさいと、色々なことを思い出してしまうから」

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