おざなりに鳴くせみの声

 太陽が南中した頃、蝉は鳴き止んだ。


「二度とそんなつまらない話しないで」


 声がひどく響いたのはそのせいかもしれない。


 なんの変哲もない夏の休日だった。それ以上でもそれ以下でもないからこそ、微かに変わった男の表情を敏感に察知した。雲のように模糊とした自らの感覚の正体をつかめないまま、女の苛立ちは募った。

 浮気などするはずはないし、猜疑心を抱くことすらない。ただ、男が唐突に過去を語りだしたのが気に食わなかった。


 ――なるほど、嫉妬か。


 考えているうち、ようやく腑に落ちる。自分にそんな感情が備わっていることが意外だっただけでなく、まさか目の前のぼうとした間抜け面の男にそんな感情を抱くなどとは思ってもみなかったのだ。

 驚きはしたが、腑に落ちてみると、案外悪い気はしない。単なる独占欲などではなく愛の証明だ。と考えてみれば、女にとっても男にとってもいくらか救いになる。失われた過去を取り戻す徒労を続けるよりかは、空っぽの今を少しでも埋められる手段を求めていた。




「緑色の電車が目の前を通り過ぎるとき、お祭りのにおいがしたの」


 提灯の列が、にわかに吹きつけた風にくるりと一回転する。夏祭りはとうに終わったはずで、おどろくほどゆっくりと走る電車と祭りはなにも関係がなかった。女は記憶の糸をたどりながら、その先端に光るものを見つけた。線香花火のようないつ落ちるともわからない、たよりない光だった。

 静かに手を伸ばすと、触れる前に落ちてしまった。遠くにあるはずの光は不思議と、手を伸ばせば届くと思った。夢を見ていることはわかっていた。いないはずの人が近くにいて、いるはずの人が近くにいなかった。夢を見せる記憶の悪戯に感謝したいと手を合わせた瞬間、女は目が覚めた。


 ――過去は、あなただけのものじゃないの。


 シーツをギュッと胸に抱えるように引っ張ると、隣の男がうーんと唸る声が聞こえた。それもまた、悪くなかった。




 八百屋ですすめられたカボチャはまだ甘くなかった。叩いてみると軽やかな音がして、とても甘そうだと思ったのに。店主いわく、しっかり追熟した実は中心が空洞になっているから軽い音がするのだとか。カボチャは収穫してから寝かせることで甘くなるらしい。女は、そのカボチャが十分に寝かせられたものだと聞いて、つい買ってしまった。のせられやすい。


「カボチャって夏野菜じゃないんですか?」


「植えた時期によるよ。晩秋まで収穫できるから。冬至に食べるでしょ」


 ――寝かせる時間、ちょっと短かったのかな。


 遠くの冬至を思う。柚子湯に浸かったことはあっただろうか。意味のない記憶を探して記憶の糸を辿りながら至るべき場所はやはり一つ。彼のいる学生時代だった。



 お好み焼き、たこ焼き、金魚すくい、林檎あめ。水風船でびしょ濡れになったTシャツやスカートから下着が透けても気にしない。

 浴衣、クラスメイト、ロケット花火。まとめた髪が乱れていないか、着付けてもらった浴衣は崩れていないか、そんなことを気にしながら歩いた。

 初めて繋いだ手は、おたがい汗びっしょりで、恥ずかしくて、それなのに離したくなくて、可笑しくなって笑い出して、笑い過ぎてなにが可笑しかったのかも忘れた頃、誰もいない夜の公園でふたりきりだった。


 ――ちょっぴり寝かせ過ぎたかな。


 追熟した記憶は現実ではありえないほど甘く、芳しかった。嫉妬心を抱いた男への想いは当然そこには至らないものの、なんとなくそれはそれで良いと思った。女は遠い記憶を味わいながらも、確かさのある今こそを愛していた。幸福とはまさしく、このことなのだと確信した。




 甘くないカボチャは軽くゆでてから細切りにし、サラダにした。


「サラダか」


「……昨日はごめんなさい」


 ふたりのあいだの沈黙に、自然と緊張は高まっていく。夜闇のむこうから、祭りの音だけが聞こえてくるのに、透明の膜でそこだけ覆われたかのように、ふたりきりだった。


「ねえ、キスしていい?」


 女は少女だった自分をじっと見ている。少年だった彼は、永遠に少年のままそこにいる。その彼を、目の前の男が追いかけるように重なっていく。

 似てるはずないのだ。この世界には彼に似ている存在など残されているわけがない。とうの昔に消えてしまった存在を重ねるには、現実はあまりに醜すぎる。それでもいいのだ。


 そう思える夏の夜だった。

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