石を積む
女は公園のまえを通り過ぎる時に、自転車の速度をわずかに落とした。
平日の昼間に出歩いてる人は少ない。
青いベンチに老人がひとり座っていた。缶コーヒーと新聞をお供にして、煙草をくゆらせていた。正面の滑り台では、六歳か七歳くらいの男の子が階段に石を積んでいる。目の前は砂場だが、小石はない。隣接した集会所の砂利道から持って来ているのだろう。
少年は女の娘とちょうど同じくらいの年頃だった。女は心配になって、思わず自転車をとめた。
公園には二人しかいない。
老人は鮮やかな赤のスカートを穿いていた。銀色の髪は短く切り揃えられ、日の下で豊かに輝いている。長く白い髭は三つ編みにして胸まで垂らし、先端に赤いリボンを結んでいる。
奇人そのものだった。
「ああ、酒屋さんのとこの」
商店街の酒屋の老人で、三年前に妻を亡くし、今は独り身だと聞いた。店に立つ時にはいつも小さな赤いリボンで髪を結ぶのが、彼女のトレードマークだった。
背が高く、年老いても背筋の伸びた凛とした女性で、自分が年老いたらああいう女性になりたいと、女は常々考えていた。懇意にしていたわけではないが、葬式にも出た。大勢の人が訪れた。そのなかでひとりぽつんと背を丸めて隅に座る老人、彼の周囲だけ空気がよどんでいた。
女には漠然とした印象しかなかった。妻を亡くして悲しみに暮れる、どこにでもいる老人だとしか思わなかった。すぐ後に酒屋は店じまいし、一年ほど経ったあとから男やもめの奇行が始まったのだそうだ。
「もしかしたら、奥さんが旦那さんのなかで、まだ生きてるんじゃないかしら?」
「ふーん。そういうものですかね」
妻の服を着た男はあまりに自然と商店街を闊歩していたため、今まで誰も何も言うことができなかった。
女装、というのとは違った。妻との思い出に縋るかのような、みじめったらしい悲哀とも感じられなかった。気が狂ったと一時は噂されたが、そのうち誰もが慣れ、日常に変わった。
奇行であることには違いないが、誰に迷惑がかかるでもなく、まるで初めからそうだったかのように、商店街ではお馴染みの光景となってしまった。そして、理由も経緯も思いも知られぬまま、当たり前のこととして埋もれた。
女は公園に入り、老人の隣に腰掛けた。老人は女に視線を向けると、微笑を浮かべた。奥さんとは似ても似つかないのに、どこか彼女を思い起こさせた。
「いい天気ですね」
「ああ、ご無沙汰しています」
老人のあまりの平凡さに、女は拍子抜けした。
以前と少しも変わっていないどころか、むしろ朗らかさすら感じられた。赤のスカートのしたに、青白い脚が除き見えている。女の額を汗が伝うのに、目の前の老人はどこまでも涼しげだった。
大切な人を失う。女にも覚えのないことではない。
ありふれた日常のありふれた出来事が、目の前の老人を変えてしまったのだろうか。老人にとっては、普通の範疇では考えられない出来事だったのだ。
老人の中に彼の大切な人がまだ生きている。記憶や思い出という類の言葉で容易く表せるような者ではなく、実際に生きている、という方が正しい気がした。女は無遠慮に尋ねた。
「どうして、奥様の洋服を着てるんですか?」
誰かに聞かれるのを待っていたのか、はたまた、指摘されることなどないと高を括っていたのか、老人の穏やかな表情からはなにも読み取れなかった。
女は質問したことをすでに後悔していた。だが、旦那や子供を彼と同じように愛せるか、疑っていた。そして、愛とはなんぞや、と——。
「それはですね……」
女はふと視線を滑り台のほうへやった。いつのまにか階段のすべての段にうずたかく石が積まれていた。そこに少年はいなかった。
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