休憩室のドアが、拳一個分ほど開いていた。コンクリートの外壁から滲みだした赤茶けた液体のように、内部が錆びつき脆くなってきている。修繕しないと長くはもたないだろう。建築で学んだ知識が、時々こうして顔を見せるが、意味をなさないまま思考の中で溶けて消える。

 裏口から出て、ポケットから煙草を取り出した。ライターがない。一度くわえた煙草を半分におり、捨てようとしてからやめた。まっすぐに伸ばし、先端を指で叩いて箱に戻した。


「これ、面白いの?」


 迷いなく首を縦に触れなかったのは、自信がなかったからではなかった。自信はあった。書けば書くほど技術は身についたし、語彙も増え、表現は豊かになった。だが、作品にどこか誠実さが欠けていることには気づいていた。

 綿密な調査と研究により、微に入り細を穿つよう努めたものの、男の人生の必然に駆られるように書いたのではなく、書き続けなければなにかがそこで終わってしまうような気がしたから書いただけだった。

 一瞬の迷いのあと、男は曖昧に頷いた。


「そっか」


 ドサッと原稿の束が落ちた。拾い上げ、すぐに気付いた。最初の数枚は読んだ形跡があったが、あとは印刷した時の綺麗な状態が保たれていた。




 月のない夜。川沿いの道の、ちょうど街灯の下で振り返った。ワンピースの裾が翻ると、秋風が二人の間を吹き抜けた。


「時差があるんだと思う」


 少女の言葉が忘れられない。なにかがずれているという感覚はきっと、彼女特有のものではない。例えば、日曜昼に訪れる女の客。あれはどこか、少女に似ている。顔ではない。もっと微妙なところ。歩く時に右足の歩幅が僅かに短い。前髪に癖があって、垂らしても右に流れる。笑うタイミングがコンマ数秒遅れる。


「あなただって、少しずれているじゃない。起きる時間とか」


 毎朝四時半に目を覚まし、執筆にあてていた。女はいつも、二時間後に起きた。


「え、どうして?」


 夜の小川で花火をした。真昼のバスに乗って、知り合いの知り合いに会うとは思わなかった。それが知り合いの知り合いだとも知らずに。断片がつなぎ目なしにつながれて、不自然なはずが違和感なく受け入れられ、男は、自分が本当にいる場所を忘れた。光の粒が、スプリンクラーの水のようだと思った。プールの水だから汚いんだよ、と誰かが言った。


「別に、付き合ってみればいいと思うけど」


「うん。お試しって、別に悪いことじゃないもんね」


 目録作りをしているさなか、体育祭の大看板を見つけた。新たに収蔵される美術品のなかに、どうしてそんなものが紛れ込んだのか。

 男は文化祭の準備をしていた。後夜祭のあと、五人で集まって花火をしたのは、夏の夜の小川だった。


 ――バスのなかだ。


 記憶はぐるぐると回っている。少女の頬にしずくが光っている。一瞬、彼女が泣いているのかと思い、どきりとした。バスの乗客はふたりだけ。運転手はいるのだろうか。一般道なのに、高速道路を走るようなスピードでバスは進む。「田舎道だから」と少女は笑ってすませた。それにしても速すぎるのは、男が年を取り過ぎていたからかもしれない。


「泊まりに行くなら、そのとき話せるよ」


 バスからおりる少女の後ろ姿を見送った。垂れた短い髪のさきは、汗で少し濡れていた。


 ――夏の夜だ。


 罰としてあたえられたはずの仕事に、すぐに夢中になってしまったことに罪悪感を覚えた。男は自分の店を持つのが夢だった。その夢をかなえてからは、なぜか退屈だった。退屈さを感じたことへの罰が、目録作りだった。ぐるぐる回っている。

少女の相談に応じられるほど自分が成熟しているとは思えなかったが、いいかげんな言葉を返すのも躊躇われた。バスにはふたりきりだったし、他に誰が見ているわけでもない。目録を作りながら見つけた大看板は、少女の最初で最後の作品だった。


 ――付き合ってみればいいなんて言わなければ良かったんだ。


 今でもあの大看板は体育館の用具入れにしまわれたままだろうか。目を覚ました男は、となりに妻がいないことに気がついた。




「あら、早いわね」


「目が覚めたんだ」


 ――そうか、似ていたんだな。


 久々に会った少女の面影を、妻のなかに見いだした。


「今日、軽井沢まで行くんでしょ?」

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