涙と嘘と
「泣いたふりしてんじゃねえよ」
男は冷たく言い放った。
女はそうして演じるのが板についている、というより、自然に演じてみせるものだから、自分自身で演技か本心かの区別がつかなくなっていた。
男は演技を見破っているわけではなく、涙を流す女に嘘を重ねてしまえば、何もかも誤魔化せると思った。二人して、この状況の適切な切り抜け方を知らなかった。
通りを行く人々は好奇心に打ち勝つべくもなく、視線の端で彼ら盗み見る。時には堂々と足を止め、写真を撮ろうとするものもいた。女は涙で視界がぼやける中、一人の中年の男の足元を見た。ダークブラウンのスウェードの靴は手入れが行き届き、配色を合わせた靴下のボーダーが裾の下から覗いてる。薄いストライプの入ったベージュのスラックス。赤茶色のジャケットの織はチェック柄のように仄かに格子が浮き立ち、内には淡い黄色のベスト。柄と柄、色と色が無理やり継ぎ接ぎされているのに、全体としては調和している。
顔を見た。容姿は醜悪と言っていい。額から禿げあがった頭も、眉間のちょうど上にだけ毛が残っている。垂れた力のない目と奥で静かに光る瞳、面長で広い顎を持ち、口角が持ち上がっている。男は笑っていた。自嘲気味な笑みに見えた。
少年と少女は高校の同級生だった。小中が同じ学校で、家も近い。傍から見ても特に親しげで、その関係に誰かが割って入る余地などないように見えた。そこに割って入ろうとしたのが女だった。
「なに読んでんの?」
三年になってようやく女は少年と同じクラスになった。彼が授業中に海外作品の文庫本を読みあさっているのは知っていた。女は少女と同じく美術部で、一緒にいることが多かった。当然、少年とは何度も顔を合わせていた。彼のあとを追いかけるように、図書室で文庫本を借りた。読むうちに目的は変わった。声を掛けられることを期待していなかったと言えば、嘘になる。だが、由美子にとって小説を読むこと自体が喜びになっていた。退屈で小難しいばかりだったはずの言葉の群れが、幼い頃から親しむ友のように感じられた。言葉は、心の深いところにいつまでも居座り、根を伸ばす。密に繋がる。
図書室は二人きりだった。受付で本を読む女に少年が声を掛けた。不意を突かれた形で、即座には答えられなかった。二人で同じ空間で、同じように本を読んでいることに満足していた。その心地よさが、思わぬ形で破られたのだ。
「君、確か同じクラスだよね?」
涙がこぼれそうになって背を向けた。体育祭の練習の時、二人きりで話したことがあった。これぞ恋がなす業、なるほど本よりずっと苦い。女はつい感心した。と同時に、やはり涙はこぼれ落ちた。
——どうしてそんな昔のこと。
そうか、と女は思い当たる。目の前に現れた醜男の自嘲気味な笑みが、少年と重なったのだ。
女は思わず視線を外した。中年男は興が醒めたのか、すぐにその場を後にした。他の者もつられて去ると、二人は誰の興味も引かなくなった。
「わかった。泣くのはやめる」
「ああ、こっちも悪かった」
あの日と比すべくもなく、痛みも苦しみもない。差し出された男の手を握らずに、女はひとり立ち上がった。
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