ゴールライン

「あっ」


 男は交差点で信号待ちをする人のなかに、通勤電車で一緒になる女を見つけた。毎朝同じ時間の同じ車両、同じドアから乗る。見覚えがある、というだけの理由でしばし女をじっと見ていた。擦れ違う瞬間、目が合った。男はすぐに視線を逸らした。

 横断歩道を斜めに駆け抜けると、スピードを落とさないように滑らかに右へと曲がり、一足で縁石を飛び越えた。


 ――朝の電車で、よく一緒になりますよね。


 特に女に惹かれていたわけではなかった。仕事以外に話し相手はいない。走りながら頭のなかで誰かと会話をするのが、男の孤独のささやかな慰みだった。男が話しているのは所詮、男自身の作り出した幻影だ。

 そのまま真っ直ぐ二百メートルほど直進し、緑道に差し掛かると左に折れた。


〈そうですね。これはまた、偶然ですね〉


 夜の緑道は暗く、湿ったにおいがする。犬の散歩をする人、走ってすれ違う人、帰路を急ぐ人。

 足取りは軽く、呼吸にも余裕があった。三キロか四キロくらい走ったところで調子の良し悪しがわかる。昨晩、酒も飲まずに早く寝たのがよかった。疲れがない。


 ――いつも、同じ車両に乗るんですね。几帳面な人。


〈ええ。でも、それはあなたも同じでしょう〉


 真横を人が通り抜けた。緑道の頼りない灯りのもと、男は一瞬だけ横顔を見た。正確にはわからない。年上だ。それは四十、あるいは五十がらみの男だった。地面から反発を得て、ぐんぐんと前進する。動物の走りのようにしなやかで軽く、軸が安定して、損失の少ない効率的な走りをしていた。


「速い」


 急に呼吸が苦しくなった。


〈ホント、速いですね〉


 若いアスリートならともかく、自分よりも年長の者に負けるつもりはなかった。とはいえ、抜かれた直後にぴったりとついていくのも気が引ける。

 男は思案した。張り合うのは憚られるが、このまま置いて行かれるのも癪だ。敗北を認めるくらいなら、この瞬間に走るのをやめてしまった方がいいではないか。


〈でも、案外向こうも楽しんでくれるかもしれないよ〉


「まさか」


 少し距離があいてから、離されないようにあとに続いた。



 すれ違った女は、昔付き合っていた彼女に似ていた。


「人生って長いでしょう。死ぬまで一緒に歩むことを考えると、あなたじゃないって思ったの。ふたりで老いていくこと、想像できないのよね」


 同じ言葉が何度も脳裏をよぎっては、静かに男を苛んだ。

 人生のパートナーに能わない。一緒に生きていくことを望むような人間ではない。男が容易く想像することのできる未来が、彼女のなかには微塵も存在しなかった。



〈ほら、今あの人、ちらと振り返った。やっぱり向こうも対抗心を燃やしていたのよ〉


 ふり返った男はペースをあげた。負けじと、追う男も影のようについていく。

 前を行く男のウェアと、後を追う男のウェアは似ていた。青のノースリーヴで、胸と背に、白い蛍光線が入っている。

 病院の前を通るとき、追う男がそれに気がつくと、急に息が切れ、全身の骨と筋が軋むのを感じた。


〈もうすぐ、もうすぐゴールだよ〉



「でも、結婚がゴールじゃないから」


 女の言葉を思い出した。前を行く男が、点滅する信号に間に合わせようと、さらにペースを上げた。まだ走れる。追いつけるはずだ。遅過ぎるはずがない、追いつけないはずがない、こんなにも想像ができる、思い浮かぶのだ。未来が、幸福な未来が。


 バンがスピードを落とさずに右折した。


 ――あっ。

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