白い雪と星と月兎
「ラップではかれる? トラックで走るの、久しぶりだから」
大学に顔を出すのは久々だった。
男はもう、速くは走れない。二周半で一キロ。三分三十秒。一週間に二回しか走れないわりには、悪くないタイムだった。
トラックを踏む瞬間、太腿、膝、腹筋背筋、全身に力が跳ね返る。心が弾む。肩で息する。走りにリズムが生まれると、不思議と呼吸の苦しさが消えていった。
「そろそろコタツだそっか?」
風を切って走る男は、なぜか唐突にその言葉を思い出した。
こうした記憶の断片が、不意にちらちら顔を見せる。
汗の雫に、彼女の涙を見た。
はて、彼女は泣いたことがあっただろうか。思い出そうとしてみるものの、とん、とん、という走りのリズムが記憶から遠ざかろうとする。ハイになっている。感情や思考が平時と比較できないほど速く巡る。なのに、記憶のなかに彼女の涙を見つけられない。
あっという間に五キロを走り切った。もう現役ではないのだ。まだ若い。大きな怪我をしたわけでもない。それでも、二十分を切れれば十分満足だ。
「もしもで語ることに意味はあるの?」
相談したいことがあるから、と呼び出されて彼女が最初に口にした言葉。
駅のホームで待ち合わせたからにはどこかに行くのだろうと思ったが、定期圏内から出る様子はなく、電車にも乗らなかった。ベンチに座り、フェンスの向こうの飲食店から伸びる配管を眺めた。ダクトを這うつたはあわく、淀んだ空気を吸い込み、透明な息を吐く黄緑色だ。
景色は漠としてつかみどころがない。何両もの電車が目の前を通り過ぎ、人も過ぎた。二人だけが、その場所に取り残されていた。
「たとえば、あのつた。もしもあのつたが、もう一メートル長かったなら、どこかで殺される誰かが助かるとする。だけど、実際にあのつたは一メートル長いなんてことはないわけでしょう? どこかの誰かはあいかわらず死ぬ。もしもの可能性について思索することに、どれほどの意味があるのだろうって話」
「そうであったかもしれない世界なんて、そもそもどこにもないってこと?」
「うーん。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。むしろ、確かめようがないんじゃないのって話かな」
――もしも今でも君が隣にいたら、素直に笑えただろうか。とか?
彼女が髪をあかるく染める夢を見て、黒髪のほうが良いじゃないかと男は思った。まあいいか、と男は走る彼女を追いかけた。
電車はいつのまにか最寄りの終着駅に辿り着いていた。網棚に捨てられた週刊少年誌と男だけが最後に電車に取り残され、なんとなく不憫で、それを手に取り、ホームのゴミ箱へと捨てた。
改札を出た。
月が東の空に浮かんでいる。
ウサギがついた餅の欠片が、雪となって降るのだろう。今が夏だろうが、秋だろうが春だろうが、どんな季節だろうが関係なく、月の綺麗な夜は、雪となって降るのだろう。
彼女の言っていたことを思い出す。
「雪は死んだ星の欠片なの。人が死ぬと、星になるの。つまりね、雪が降り積もる場所まで走れば、かならず二人はもう一度会えるんだよ」
足が重たい。月の方角は家とは逆だ。まだ、走れるだろうか。
「ねえ、どこまで走ればいい?」
男の言葉は届かない。
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