瑠璃色のよるの向こう

「まあ別に、悪い人じゃないと思うけど。とりあえず試してみれば?」


 分厚い唇からこぼれおちた言葉は無責任そのもので、受け取る女のほうでも、特に真剣に聞いている様子はなかった。


「うん、まあね。あたし、お酒やめよっかな……」


 女はにわかに話頭を転じた。男はそこへ器用に飛び乗り、自在に流されていく。長く一緒にいて、彼女の突拍子もない言葉への対応力だけは身についた。だが、心だけがいつまでも遠い。


「今日、三連休の三日目だけど」


「それが?」


「三連休の三日目の夜にがぶがぶ飲んでる人間が、果たして酒をやめることなんてできるだろうか?」


「あまいあまい。あたしを舐めんな。ねえ、ラムネのビー玉の取り出し方って知ってる? からから鳴るやつ夏の風物詩」


「そんなの知らないよ」


「ならきっと、私がお酒をやめる最高の手段をひとつ持っていることを、君はまだ知らない」


「うん。確かにそれも知らない」


 ――本当は知っていたけど。



 男が女に会えないまま二か月が過ぎた頃、久しぶりのメッセージが届いた。


『十月から逃げ続ける方法』


 という言葉と、そのリンクだった。出てきたページは蛇の対処方法で、到底それでは十月から逃げ切れるとは思えなかった。


「期待してたんだけどな」


 男は届くわけない言葉を呟いた。

 彼女の故郷は海だった。かつて集落があった。知らない街の知ってる人だったはずの彼女はもうおらず、知らない街には知らない人しか残されていなかった。

 男は海沿いの道を歩いた。高い防潮堤は海を隠し、彼女が奪われたものたちを隠し、ただ波の音だけが微かに耳に触れた。

 擦り傷くらいで泣くなよ。と、誰かが言ったのが聞こえた。あたりに人はいないと思っていたが、すぐ後ろを自分と同じ年頃の女と、その子供らしき少年が歩いていた。


 マンガのような、土の色みたいな顔をしていた。誰かのわざとらしい「生きてるみたいだ」という言葉が空々しく聞こえた。そうした言葉だけが軽く水蒸気になってのぼり雲となり、彼女だけが灰になって埋められる。防潮堤の向こうから聞こえる波の音。あのあおいおとのなるそらから落ちた彼女は、ひとりで土に潜った。


「それが弱さだと言えますか?」


 不意に自分の口から漏れた言葉に、周囲以上に男は驚いた。

 男は、彼女を一度だって弱いだなどと思ったことはなかった。眠りたいなら眠ればいいと、諦念に似た感覚で喪失を受け入れたつもりだった。

 本棚に眠る読まれない本のように、しばらく閉じておけばいい。必要なときに、記憶をたどればそこにいける。

 本を開いてでてきたしおりは、本と同じ匂いがする。

 どこかに電話でもするつもりだったのか、小銭をぎゅっと握りしめたまま、瑠璃色のよるの向こうへ彼女は飛んだ。とびこえたさきにりんごのような夕焼けをみたら、もうさようならの時間がおとずれていた。そうして毎日を過ごせばいいはずだった。今日が昨日になり、明日が今日になる日々を惰性で続ければよかった。

 おちばをふむおと、むねのむかつき、好きとか嫌いとか縮れた葉とか、まっすぐの線をうまく引けないと悩んだりとか、男のくだらない時間と女のくだらない時間が重なり合って、どうでもいいもののとして続けばよかった。


「これこそが世界一って思ったよ」


 サンフランシスコのバーガーショップを絶賛していた女の、あのどうでも良いはずの一日が鮮明によみがえった。プリンターの表示はずっと、マゼンダが足りません、のままだった。

 記憶の糸をたぐりよせるようにして、女に近づく。強く引けば、簡単に切れてしまうとわかりながらも、焦燥が男を急かした。


「しみとれなくなっちゃうよ」


 また断片だった。

 水性ウレタンニスを塗った天板にかがみ込むようにして、ティッシュに手を伸ばした瞬間の記憶だった。

 デスクの一部は、微かに色が薄い。

 あのとき着ていたシャツはもう、とうに捨ててしまった。


 そうして知ったいたみが、パンタグラフのうえを光の速度で走って、日本中に知れ渡る。男の苦悩は男だけが独占できるものであると同時に、どこかの誰かの苦悩でもありえた。

 男の知らない人も、知っている人も、生きているうちに何度も経験する避けがたい苦しみ。ありふれた、どこにでもある苦しみ。必ず直面する喪失。くだらない、特別じゃない。涙がとまらない。思わず嗚咽が漏れる。


 それでもどうしてか、流れ星を見ると綺麗だと思ってしまうのだ。

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