海の底の声から
声が聞こえる。同じ音だけが耳の奥に鳴り響いている。負けたくない。絶対に負けたくない。あと数日で、今年も夏が終わる。自動販売機で買ったスポーツドリンクが汗をかいている。水滴が手に冷たい。全身が深海に沈んだみたいに押しつぶされそうになる。水圧とプレッシャーと、どちらが重いのだろうか。
朝だ。
昨日の夢が続いていた。
カーテンをめくる。音のとばりをひらくと、現実があざやかに蘇る。あさのあめにぬれる通りの、甘ずっぱいでもほのかにしょっぱい中学生三人組を見下ろした。もう、そんな時間か。
「そらとうみの深さを比べると、どっちのほうが深いんだろう」
髪の長い少女の声が聞こえた。朝の空気が澄んでいるせいか、声がするりと高く抜けてきた。
「それは海でしょう」
背の高い少女が応じた。
「どうして?」
三人目の髪の短い少女の声は、ひばりのように天にのぼるようだった。
「だってさ、海は底が見えないけど、空は見えるから」
「ふーん」
「見えないほうが良いってこと」
「そっか」
束の間の沈黙が訪れた。鳥の声、葉擦れの音、遠くの踏切の警報音、朝のそこにあった。
「ねえ、しゅうまつなにする? っていうか、今日って何曜日だっけ」
「知らない、たぶん、まだ水曜日だと思う」
「またあたらしい靴を買うつもり」
「その靴じゃ歩きにくいから?」
「そう」
不器用そうに笑う声だけが、男の耳にだらだらと残り続けた。
おざなりに鳴くせみの声に目を覚ました。どうやら二度寝していたようだ。
例の声は、森のにおいがするほど濃いみどりいろだった。森にはきっと家がある。どこかとおくにある誰も知らない家。まだ、男が一度も訪れたことのない家。
森を抜けると、静謐な空気に満ちた湖がある。湖面は波ひとつ立たない穏やかさで遠くの山の稜線をくっきりと映し出し、頂きには白い雪を抱いている。
声の正体がまだ、男にはわからなかった。
「かいてみたらさ、思っていたのとちがった」
あたらしいロッカーの鍵を受けとると、鍵はまだぎこちない動きで穴に吸い込まれ、ググっと唸りながら回った。いしよりいくらかかたい金属の声は、自転車のギアの切り替えの不器用な音に似た情けない音で鳴いた。
窓を開けて、蜘蛛の巣のしずくをティッシュで吸う。それよりももっと小さな粒をさがす。思い出のひとかけらも見いだせないほどに小さな水滴を。見つかるわけがないのに。記憶などを頼りにしても、過去は今この場所には残されていない。あるのはただ、漠然とした今だけなのだ。未来も見えないままの、不安だけが降り積もった今だけ。
昨日は夜おそくまで起きていた。だから夢を見たのかもしれない。夢を見て泣きそうになった夢。その夢で、男は泣かなかった。
「どうちがうの?」
「描いたのは猫なのに、それはまるで山羊じゃないのに、山にいる羊のような」
「絵を描いたの? はこのなかみを覗き見る。そこにはひみつの絵が見える。君が描くのはそんな絵だと思う。覗き見る人にしか見えないけど、甘いお花のにおいがするんでしょ。山に咲く、誰も知らない花のにおい」
「君のそのロマンチックな妄想癖はどうにかならないのかな。ライトの書くだけど、絵で話しただけ。書いたものはなくした。というか、駅の網棚に置いてきた。そうでもすれば、誰かが読んでくれるかも知れないから」
「なくしたならまた書けば? あ、そういえば卵、買い忘れちゃった」
「忘れたならまた買いに行けば? 傘をわすれたら雨に濡れれば? そう、それだけのことだよね。それだけ。忘れたもの、失ったものなんて、また見つければいいだけってことでしょう」
「まさか、そんなわけないでしょ」
いつも左手は空けておいた。いつだったか、知らない子供に手を握られたことがある。見上げたそのあどけない顔に、一瞬にして運命とか未来とか、そうして埋まらないはずの空白を埋めるのはいつも子供だった。
あのとき渡しておきたかったのに。渡せないまま空白になっていた。書き直すことのできない物語もある。
過去にいつまでも手が届かないまま、手を伸ばしているのはなんとも虚しい。
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