偶然と不注意と必然
「事故にあう瞬間とか死ぬ直前は、時間が長く伸びて、スローモーションみたいになるって言うでしょ。なんかね、あの事故はそういう感じだったなあ」
女はまるで昨日見た夢の話でもするみたいに、落ち着いた様子だった。目が赤い。泣き腫らしたのがわかる。
一夜明けて、ようやく話す気になったらしい。予定が早まっただけだから、という言葉に微塵も説得力がないのはなぜだろう。理に適っている。だが、男には心の準備などできてはいなかった。
「よくわからないんだけど、つまり、君は、あとどれくらい……。えっと、どう言えばいいんだろう」
男の慎重に言葉を選ぶ様子はどこかあどけなく、女は少し笑った。男は女の微笑がおそろしい。死を受け入れてしまったかのように見えた。
「簡単に言うとね、あなたと一緒にいられる時間は、長くてもあと一年くらいってこと」
「そっか」
――そっか。そっか。そっか? どうしてもっとまともな言葉を掛けてやれなかったのだろう。
「どっちかが注意してれば、事故なんて起こらないでしょ。不注意が原因だもの。でも、こればっかりは仕方ないのかな。病気はどこから訪れるのでしょうね」
勢いよく右折したバンは、ランナーを巻き込んだ。男は視界の端で起こった出来事を鮮明に覚えていた。のちの人生で何度も反芻するように思い出しては、その度にまるで異なる記憶が蘇る。
バックミラー越し。フロントガラス越し。運転席のドアウィンドウ越し。あるいは反対。空から全体を俯瞰していたことすらある、あり得ないはずの記憶の数々。
記憶に強く残ることで、新しい形で書き換えられる。思い出すということ自体が新しい記憶を生み出していく。生成と消滅が繰り返されるなかで、見知らぬランナーは幾億もの命を失った。
特に気にかけなかったが、奇妙な経験ではあった。どうやらそれは、女にとっても似たような経験だった。
「スローモーションみたいになるって言うでしょ」
女のすっかり落ち着き払った声はかえって男の心をかき乱した。
ベッドの脇に掛けられたチェックリストを機械的に記入する看護師。束ねた髪を留めるピンに、鮮やかな緑色の花があしらわれていた。初めて顔を合わせるわけではないはずなのに、強く印象に残った。
「最近、調子が良いみたいですよ」
誰もいないベッドを黙って見つめていた。検査の間、こうして病室で待つことが多かった。
しおれかけの花を花瓶から抜き、綺麗な水に入れ替えた。新しい花を買うのを忘れた。冷たいほど整った白い部屋には色が必要だ。女がそういった訳ではないが、男はそう信じていた。
「そうですか」
――あの時、信号は青だったっけ。
人と車がぶつかる鈍い音。日は沈んでしまったが、西の空に赤が名残惜しそうにへばりついていた。
あの空がフロントガラス越しに見た空だったか、バックミラー越しに見た空だったか、男は忘れていた。記憶のどれが現実で、事故の結果がどうなったのか、自分とは無関係のところで生じるはずの死の予感が近く感じられた瞬間だった。どうでもいいはずの他人の死が、大切な人の死の可能性に近づき、絶え間なくシミュレートされるのだ。
「ねえ、ここに座って」
男は言われるままにベッドに腰掛けた。
「カーテン閉めて」
「どうして?」
「まぶしいから」
看護師が検査器具の乗ったカートを押していた。病室を出て右に折れた。がしゃん、となにかにぶつかる音が鳴った。
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