朝霧にかすむ
『春暁』
春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少
東の空が白んできた。雨はとうに止み、冷たい空気が肌にまとわりつくような昨夜の物憂さを孕んでいる。ベッドサイドテーブルには、記憶からこぼれ落ちた数多の空き缶が乱雑に並び、獺祭のごとき体裁から過去へと遡って自らの行動を推察した。
同じことの繰り返しだった。
重たい頭をベッドの端からもたげ、半身を乗り出した。ぎりぎり届いたスマホを掴み取ると、まだ鳴っていないアラームを切り、同じ体勢のまま、並ぶ缶をいくつか持ち上げてみる。残っているものを見つけ、喉と胸に残る焼けるような違和感と一緒にそれを飲み下した。
カーテンを引き、窓外を覗き込む。鳥の声だけは聞こえるのに、その姿だけはとらえられない。夢の続きだろうか。意識がぼんやりしているのか、視界が朝霧に遮られているせいか、思考も感情も明瞭な輪郭が失われている。さっきまで一緒にいたのは誰だっただろうか。思い出せない。
雨が降っていたことは覚えていた。外で一二杯飲んだのもはっきりと覚えている。隣に知らない男がいたこと。意気投合して、彼が部屋に上がり込んだこと。体をかさねたこと。瑣末な出来事の数々が思い出されるのに、肝心ななにかがすっぽりと抜け落ちている。はて、誰だっただろうか。思い出そうにも、そもそも夢現の境界すらも見出せずにいた。春の夢の曖昧さ故だと諦め、しばらく茫漠とした白い空のなかにいるような感覚のまま、自分をなおざりにすることに決めた。
部屋の窓から見えるはずの八重桜はどうやら、昨夜のうちにその花びらのほとんどを散らした。散ったのがわかるほど近い。思い出すべき記憶はおそらく、ぼやけた遠景の背後に隠れるほどに遠い。視線を部屋に戻すと、脱いだままの昨夜の服と下着が床に散らばっている。一緒にいたはずの男はいなかった。一瞬にして去る、紐帯を結ばず終える、軽佻浮薄な情事によって空白を満たすことなどできないとしても、最低限の気休めにはなる気がした。
いつのまにか眠り、再び目が覚めた。さっき掴み寄せたはずのスマホは、ベッドサイドテーブルの端に置かれていた。夢だったのだ。
重たい頭をベッドの端からもたげ、半身を乗り出した。ぎりぎり届いたスマホを掴み取ると、まだ鳴っていないアラームを切り、同じ体勢のまま、並ぶ缶をいくつか持ち上げてみる。残っているものを見つけ、喉と胸に残る焼けるような違和感と一緒にそれを飲み下した。
曖昧模糊とした朝霧は、相変わらず意識にまとわりつくようにして思考と記憶を曇らせた。散ったはずの外の八重桜は鮮やかなピンク色の花びらを顕示するかのように咲き誇っている。
春の眠りのせいだろう。昨晩の酒と男と退屈なまぐわいとが、夢現の峻別を一層と難しくした。
何が失われたのか。春にすべてがあらたまり、自分だけが置き去りにされているのを感じた。桜の下に埋まる死体を思い浮かべて、その美しさの証明にしようとするほどのロマンティシズムを自らに見出せない、感傷の不足した自分には、悲しみを文学的に表現するだけの素養も知性も能力もなく、漫然と惰性に身を委ねて軸も動力もない車輪のごとく坂道を転がることしかできないのだ。
遠くの街が明瞭な輪郭を浮かべ、屹立するビルの隙間から太陽が顔を覗かせていた。光の眩しさに、反射的に目をそむけ、部屋の時計を見やった。
「七時」
再び窓の外を見る。八重桜はとうに散っていた。どこから昨日で、どこから今日で、どこから夢で、どこから現実だったのだろう。だが——。
一瞬で悟る。これは夢ではない。
ベッドで横たわる。夢の中でしかありえない温もりを隣に感じていた。冷たい空白がそこにあった。隣にあなたはいない。
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