幽霊と君と花
部屋の隅に、美しい女が立っているという。
年の頃は僕らと変わらない程度で、もしかしたら少し上かもしれない。長い黒髪は腰まで伸び、肌は青白く透けている。唇だけがやけに鮮やかな赤に染まり、透明なはずのその色にだけは物質的な重みがあった。切れ長の目の端は鋭いのにどこか優しさを宿し、瞳は泣き出さんばかりの潤いを湛えている。
なのに、なぜ。
僕には彼女が見えなかった。
学友は何かと理由をつけては、しばしば僕の部屋を訪れた。
彼の目的は、タダ酒を飲むことだった。ドラッグストアで買った四リットルの安焼酎を、水出しした麦茶で割るか、面倒な時はグラスにそのまま注ぐか、ロックで飲んだ。
零時を回る時分に、ふたりして前後不覚というのも珍しくはなかった。
ある日のことだ。
午前一時過ぎ、その日はふたりとも意識がはっきりしていた。
大学前期の終盤、互いに翌日締め切りのレポートを三本ほど抱えており、酒を飲む余裕がなかった。
と、いいつつも、ついつい手が伸びてしまうのが酒の魔力だ。
零時を回るとようやく安焼酎をエナジードリンクで割り、一気呵成に書き上げようと、一口で飲みくだした。
ふたりとも寝不足気味で、奇妙な高揚感で冴え渡っていた。
「もう一本買ってくるわ。全然目が覚めねえ」
「あー、僕のもお願い」
「おけー」
彼の背を見送ると、やけに部屋が静かに感じられた。
窓辺に置いた造花が夜気を吸い、深い紫色に沈んでいる。梅雨明けだというのに、山の夜は冷えた。
学校の近くにと思って借りた部屋だが、利便性などを考えると駅前の方がずっと良い。
バスで三十分ほど通学に要するものの、バイトや遊びには利便性は高い。それにしてもよくこんな場所に大学を作ったものだと思う。都心からは遠く、県内でも田舎の部類に入るであろう駅から、さらにバスで三十分とは……。それだけに賃料はとびきり安い。
などと感慨に耽るうち、彼がコンビニから戻ってきた。
彼の右手に買ったばかりのエナジードリンクの入ったビニル袋、反対の手に一房の藤の花を提げていた。
「なにそれ?」
「え、ああ。土産だよ」
「どっから切ってきたの」
「藤棚のある家があるだろ。あそこだよ」
コンビニへの道の途中に、畑に囲まれた一軒の大きな屋敷がある。
石塀は高く、中を窺うことはできないものの、塀の一端から藤棚がその頭を覗かせては、勢いよく伸びる藤の蔓が外へとはみ出していた。
「叱られたらどうすんだよ」
「こんな時間に起きてないだろ。ほら、これ」
学友は右手と左手を順々に差し出し、僕はそれを受け取った。
「藤の花なんてどうすればいいんだか」
「だって似合うじゃないか」
「似合うってなにが」
「ほら、彼女に」
彼の向ける視線の先には、白い壁紙がのっぺりと広がっているだけだった。壁際に置かれたベッドの上のなにもない空間を、彼はじっと見つめている。
そこから少し右に視線をずらすと、菫の造花の慎ましやかな色が、窓の外の夜の色に溶けていた。
「彼女って、あの造花のこと?」
「……前から気になってたんだけどさ、あの花ってなんで置いてんの」
大学で必要な教科書やパソコン、勉強のための机、寝るためのベッド。
必要なものしか置かれていない簡素な部屋の中で、その造花だけが異物として際立っている。
「もらったんだよ。人から」
彼の視線は部屋の隅にとどまっていた。
蛍光灯の光が照らす壁は、ほのかに紫色の影を天井から垂らしている。光源から角度の浅い天井は暗く、藤の花を吊るせばおそらく、美しいグラデーションを描き出すだろう。
「それって、女だろ」
言い当てられたことに驚きはしなかったが、部屋に土足で立ち入られるような不快な感情が込み上げた。
今まで一度だって彼を不快に感じなかったのは、彼には他の人にはない節度があったからだ。
立ち入らない、踏み込まない節度。
こうして幾度もタダ酒を煽りに訪れても邪険にしなかったのは、彼の他人への無関心ゆえだったかもしれない。
僕にとっては、それが友人を築く上での最低限必要な条件だった。
「前から言って良いものかわからなかったけど、いるんだよな、そこに」
胸に弾けるような痛みを感じた。鼓動が急激に高まり、呼吸が浅く、速くなった。
言葉にならなかった。彼のいういるが意味するものを、問わずとも、とみに意味が脳天を打ち、激しく動揺した。彼女がそこにいる。信じられるわけがない。だとしたら、なにがいるのだ。
彼女以外にそこにいていい人など、他にはいないではないか。
「長い黒髪の綺麗な人だよ。お前には見えてないのか」
ああ、やっぱり。僕には彼女が見えなかった。
記憶が無邪気を装って、ずうずうしくも心の隅々まで蹂躙する。
美しい過去だけが遠く、苦しい過去だけが鋭い爪で今もなお心に生々しい傷跡を残し続け、まだ血は止まらない。
気難しげに首をもたげ、うつむいた僕の顔を下から覗き込んで笑う。ほら、苦しいか。お前だけが苦しのか。お前だけが救われるのか。彼女を忘れたのか、と。
いくら表面を美しく飾ってみても、幻想のメッキは記憶の一掻きで剥がれ落ちてしまう。
あの夜の青鈍色の空からは、冷たい雨が降っていた。
深く空いた穴を埋めるのに必要な僕の色はすべて、彼女の絵の具箱におさめられていた。
パッと輝くような光がさした中、対照的に落ちる黒い影がにわかに美しい造形を浮かばせる。
彼女のひとつひとつの表情が、芳醇な色彩を湛えていた。鼻の奥がじんと痛むような美しさを、彼女に会って、僕ははじめて知った。
無限に続くと勘違いしている僕の命は、必ず彼女ももとへ辿り着く。あらゆる可能性への志向の勢いは物足りず、欲望というよりかは単なる祈りでしかなく、絶えず足を動かし続けることに耐えきれず、均衡を失った。
そうして僕はいつしか、光を求めることをやめた。
レポートを終えると、彼はベッドで眠ってしまった。
幽霊やサイキック、エスパー。オカルトを信じるには、僕はあまりに合理的な性質だと思う。だが、彼女がそこにいるというならば、信じるのも吝かではない。
学友の手前、彼女に話しかけるのは憚られた。
彼が見ていたベッドの上の空白に視線をやり、ほんのわずかに微笑んでみた。そうして彼女が微笑み返すのを想像した。
カーテンレールの端から垂らした藤の花が揺れた。彼女はそこにいるという確信がやにわに胸を貫くと、不思議な安心が僕を覆った。
「もう、平気なのだ」
平気であるわけがない、なにかが解決したわけでもない。
洗っていないグラスを手繰り寄せて、乱暴に安焼酎を注いだ。ドボッドボッと、ペットボトルが喘ぐように空気を吸い込んでは、同じ分だけアルコールを吐き出した。
カーペットが濡れた。エタノールの無機質な臭気が鼻をついた。構わずグラスを一口に煽ると、喉に焼けるような熱が走った。
「もう平気なのだ」
学友は相変わらず、僕のベッドでいびきをかいていた。
しばし忘れていた懐かしい孤独が、僕の頬をひんやり濡らした。
彼女が僕の世界を作った。
彼女が僕の世界を壊した。
彼女のいない世界は常に不完全で、不足している。穴を埋める手段がないと知ってしまった時から、僕の人生の意味は失われた。
気まぐれに星に願いを投げてみても、言葉はむなしく宙で消えた。
歯車になって回転して、鈍る軋みに耳も貸さず、無常の音の鳴り響くのを等閑にして生きてきた。
細いガラスの管に差した偽りの花だけが、彼女が生きた証拠だった。
彼女は、僕にだけ見えない。
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