濡れたひざ、自家撞着

 閉じた傘の滴が膝を濡らした。通勤ラッシュの車内で傘を避けるのは難しい。女はスマホの画面に夢中だった。青年は気づかせるために、手の甲で傘を小突いた。傘は揺れると、先端で床に円を描くように回転してから、ふたたび青年の膝にぴたりと落ち着いた。

 初夏の雨の臭気が車内を満たしていた。

 湿った肌と肌が重なり、体温がいつもにも増して近い。腕や脚が触れ、他人の肉体のなまなましい感触を意識するたび、胸の底を激しく掻き回すような燃えるような不快感が熱さがこみあげた。

 。青年にとって目に映る人々の顔に浮かぶ苦悶は羨望の対象であり、かつ、自らを共鳴させて高く響くだけに十分なほどの倒縣の難となる。

 昨晩の男との記憶が自然と蘇ってきた。



 男が服を脱ぐと、楠木の幹のようにどっしりと太い脚と、起伏の目立つ毛深い腕があらわになった。日に焼けた茶褐色の皮膚の下には、はち切れんばかりの溌剌とした筋肉を宿し、全身は野生動物のような強靭さとしなやかさを備えながら、自らの動物性を恥じるかのように、二本の幹の間から奇妙な生き物が顔を覗かせていた。ひと目見た瞬間、憎悪と憧憬の入り混じったあやしげな蠱惑に襲われた。

 幼少期から青年と共にある宿痾のため、運動や強い日差しとは無縁の人生を送ってきた。華奢な肩と白い肌、親譲りの端正な顔立ちと柔和な性格とが、結果的に青年から性的成熟を遠ざけ、無性としての彼は不思議と、特定の男女を激しく魅了することとなった。

 無骨で荒々しく、暴力といっても過言ではないほど男は激しかった。契約時に交わした条件から逸脱していると知りながらも、拒もうとはしなかった。むしろ、予めルールを取り決めたのは、後に逸脱するためかのようにも思えた。設けられた制限をはみ出すことでしか味わいえぬ快感があることを二人ともよく理解していたのだ。

 青年は行為の際、何度も嘔吐した。全身が鞭打たれたかのように痛んだ。不快感と苦痛が何度も胸を突き、鼓動が限界まで高まっては、喉が詰まり、手足の先端にまで血液を送り出すたびに、身体の中心に宿していたはずの熱が外に発散されるような精神的高揚を感じた。

 快感という言葉で説明するには不足していた。幸福とは程遠い。青年はただ、男の肉体の内から漲る欲求の対象となり、自分の意義は容易く毀損し得る浮薄な存在だと感じることで、簡易的な自殺を何度も果たした。それは性的快楽に似ていた。いつしか青年は、自らを道具的に扱われることでしか、生を紡ぐことが難しくなっていた。青年はを行為の際に念頭に置いた。メタ的に思考する客観的な自分を棄却するため、苦悩と快楽のあわいに溺れ、欲と欲の横溢する消耗戦に魂を蕩尽するのを望んだ。自らの美しさゆえ、無性ゆえ、無垢ゆえ、醜悪な男の、はち切れんばかりに迸る肉欲の処理のための道具になる、すなわち、相手の欲望と一体になる、そうする以外に自家撞着に満ちた世界を甘受するなど不可能だった。青年の女性に対する嫌悪は、にわかに浮かぶ鏡に映る自分の美しさに、その肉体に向けられる性欲に対する自嘲的な軽蔑だ。青年の醜悪さに対する憧れは、男性性の欠けた自分の不完全の証明だった。こうした論理の飛躍と破綻こそが、青年が正気を保つ、この世で唯一の術なのだ。激しく殴られる。意識が飛びそうになりながらも、思考が繰り返し頭をもたげ、深淵から顔を覗かせる。臀部を強く打たれる。痛みと肌の破裂するような高い音に、再び思考が引き裂かれる。知を、自意識を、思考を遠ざけ生きるために、破滅への道を青年は着実に進み続けた。自分がすべきことを、よく心得ていていたのだった。


 果てた男は青年からからだを離すと、後払いの三万円をぞんざいにベッドに散らした。青年に声をかけることもなく、部屋を後にした。

 彼と青年の間で一晩のうちに築かれた関係は、またたくまに物憂げな春の雨に溶けた。血と汗と精液に汚れたシーツに残されたにおいだけが、青年の弱い呼吸を続けさせた。



 青年の膝は濡れていた。男に痛めつけられた時にも、太ももの内をつたう汗や体液が流れ落ち、最後に膝を濡らした。

 にわかに諦念に似た無気力が青年を襲い、濡れる膝をなおざりにし、まぶたを閉じた。視界を閉ざすとかえって感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、電車が揺れるたびに女の傘が膝を打つのがわかった。

 終着駅が近いのに車内はほぼ満員だ。似ている。車内を満たすにおいは行為の後の部屋のにおいだ。汗と生乾きの洗濯物のにおい。かすかな血と精液のにおい。からだの中心が熱くなり、意思や状況とは無関係に血液が一点に漲っていく。と同時に、女の傘が青年の脛を突いた。男に蹴られた場所だった。

 目を開いた。女がなにかを避けるように身をよじった。

「やめてください」

 青年の耳だけではなく、多くの人の耳に届いたはずの声は、電車のブレーキ音に虚しくかき消された。電車は駅と駅の中間で停車し、停止信号の待機中であることがアナウンスされる。

 青年が視線をあげると、女は無表情で、睨むように彼を見下ろしていた。

「たすけて」

 女の声にならぬ声が、今度は青年の耳にだけ届いた。女の後ろで、男が醜悪な笑みを浮かべ、視線が青年のものと重なった。昨晩の男だった。

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