雨音、水漏れ、清明
キッチンの蛇口から滴が垂れていた。きつく締めたはずなのに。
入居したばかりのころ、同じことがあった。あなたは新しいゴムパッキンを近所のホームセンターで買い、すぐに交換した。賃貸の契約書には『水道の水漏れ等の修理は貸借人の負担において行う』との記載があったからだ。あたしは横でそれを見ていた。
水はぴたりと止まった。「大家さんけちだね」とあたしがごてると、あなたはハハッと笑うだけで、頷こうとはしなかった。
新しいゴムパッキンを買わなければならない。
ベランダへ出た。最上階なのだから、嫌がられるとしてもせいぜい烏や鶯、雀くらいだ。高を括り、買ったばかりの百円ライターで煙草に火をつけた。
六年前にやめたはずの煙草をいつのまにか吸い始めていた。紫煙は高くのぼり、雲に混ざって消える。青灰色の空からは、今にも雨が降り出しそうだった。風が吹くたび、鼻の奥にずんと重み感じる。花粉だけでなく、海の向こうから風が黄砂を運んでくる。
サハラの砂がアマゾンの植物の成長を支えている。そういう話のドキュメンタリー映画を見た。
熱帯雨林の土壌は栄養分を長く留めておけない。頻繁に降る多量の雨で土とともに洗い流されてしまう。生命力の漲る密林の土は、予想外に痩せている。となれば、アマゾンの鬱蒼と繁る草木の成長を支えているのはなんなのだろうか。謎を解く鍵の一つが、サハラ砂漠とハルマッタンと称される貿易風にあった。
太古の昔、現在のサハラ砂漠のボデレ低地と呼ばれる場所には、かつて湖があったという。そこでは数多の生物が泳ぎ、食い食われ、死に、産み、増え、減り、生命としての当然の営みを繰り返し、暗い底に生命の歴史が蓄積された。湖は数億年を経て干からび、窒素やリンなどの植物の成長に不可欠な栄養素を多く含む砂が残された。数億年分の生命の死骸は乾いた風に舞い上がり、貿易風——ハルマッタン——に乗って海洋を越え、アマゾンへ至り雨に混じって降りそそぐ。
樹冠の下の仄暗い地面に、鮮やかな花が咲く。その蜜を吸う蝶も鳥も、彼ら軽い羽も、ひいてはジャガーの黒と黄と茶の美しい斑点ですら、もとを辿れば太古の深い湖の底に沈んだ、色をなくした死骸だ。一度は切断された生と死の連鎖が、こうして遥かなる時と空間を経て、あらたな生命の糧となっているのだ。
黄色い砂か花粉か、空をにわかに変色させる春の風物詩もまた、あたしとは無関係な誰か、かつて生きたナニモノかの肉体を含んでいるのかもしれない。あたしもまた、かつて生きた誰かを糧にして生き、そしてまた、いつか生きる誰かの糧となるのかもしれない。かもしれない、ではないのだ。あたしは毎日、かつての誰かを食べて生きている、その一部にあなたが必ず隠れているのだ。
ブルン、と原付のエンジン音が聞こえた。どうやら踏切の脇の交番からお巡りさんが出てきたらしい。裏にある小さなスクーターに跨り、幾度か吹かしてから、ちらと桜を見上げた。
小さなつぼみをつけ、ちらほら薄いピンクの花も開き始めている。雨を宿した青灰色に濁る空にはよく映える。お巡りさんは、そんな呑気な春を謳歌している。
——役立たず。
とあたしはごてる。誰かが小さく、ハハッという笑い声をあげること期待して。ブルンブルン、とエンジン音が響いた。うすい雨が降りはじめていた。
傘を持たずに家を出た。
踏切を渡って真っ直ぐ進んだ先にスーパーがある。裏手を右に折れると、小さな神社へと続く参道になっている。地元の人だけが知る桜並木だった。
ホームセンターまで行くには遠回りだとは知りつつ、あたしはそこをひとりで歩くことにした。
桜はまだほとんど咲いてなかった。梢の隙間からのぞく濁った空は、ベランダから見たより重みを増し、ちらと雨が降り出した。気に留めずに歩くうちに肩が濡れた。曖昧模糊とした雨だとあなどっていたが、存外降っている。
木の枝から滴が落ち、額を打った。濡れた桜の幹から土の匂いがする。にわかに暗い地の底からわきあがる、春の生命力の蠢く匂いは、あたしをどこまでも物憂くさせる。
啓蟄を過ぎ、春分を迎え、清明を待つ。しきりに鳥の声が聞こえるのは、虫が土の中から出てきた証拠だ。日が随分と長くなり、昼夜を均等に二分した。
清明という言葉を教えてくれたのはあなただった。清く明るい、あなたのことを指す言葉のようだった。
あたしはあなたの真逆だ。土の中の虫のように爪を立て、湿った塊の中でもがき、どうにか地上に顔を出したのがあたしだ。
中国には、清明節と呼ばれる、ちょうど日本における春のお彼岸のような、先祖の墓参りをする風習がある。墓前に菓子を供えたり、天国での費用にと紙幣を燃やしたりする。あなたからそれを聞いた時、中国では死んでからもお金を必要とするのかと、えらく感心したのを覚えている。
どこかで、似たような話を聞いたことがあった。きっとそれも、あなたから聞いた話なのだろう。
雨は桜の幹を濡らし、ただでさえ濃い木肌は黒さを増した。等間隔にならぶ桜の一本いっぽんを見ると、それぞれ異なるのがわかる。気にしたことなどなかった。微細な差異と同じく、去年と今年も同じはずはない。
すべて染井吉野、ということは、すべてクローンだ。DNA配列に差がない。ならば、桜が朽ちても悔やまずにすむだろうか。どうせどこかで再び咲くのだ。なのに、一本いっぽんは不思議と違う顔をしているように見えた。
ゴムパッキンを買い、家に帰る頃には濡れ鼠になっていた。
寒さで指先が小刻みに震え、鍵がなかなか穴に入らない。はやく熱いシャワーを浴びたかった。雨がマンションの廊下に吹き込み、容赦無く背中を濡らした。大きくなった雨粒が鉄の手すりを打った。カンッ、カンッ、と軽く響く。入った、とやっとの思いで鍵を回すと、錠が下りる冷たい音が耳を突いた。
——出る時に鍵をかけなかったのだ。
廊下を風が吹き抜け、全身に悪寒が走った。
あたしは振り返った。明るい。隣の建物の屋上で、白く毛羽立つように雨雫が跳ねまわっている。裂けた雲の晴れ間から鋭く日が差し、スポットライトのように舞台を照らす。無邪気だ。生の制約から解き放された肉体たちが踊っている。雨が踊っている。どうしてあなたは、そんなに無邪気に。青灰の雲が束の間の太陽を隠し、再び冷たい風が廊下を吹き抜けた。
あたしは鍵を反対に回すと、ようやく扉が開いた。
しんとした部屋に、ぽつん、ぽつん、と滴がステンレスを打つ音が正確に時を刻んでいる。水道はまだ漏れ続けていた。
心臓が絞りあげられるかのようにキュッと縮こまり、胸苦しさを覚えた。
震えるからだを温めたかった。手に下げたビニル袋をキッチンに置き、廊下の奥の浴室の扉を開け、干していたバスタオルをぞんざいに引っ張った。弾け飛んだ洗濯バサミが浴室に落ちた。透明なプラスチックはまるで井戸を覗き込むかのように、先端を排水溝に半分以上突っ込んで止まった。
音が聞こえる。水漏れのリズムに合わせるかのように、耳障りなくらいの雨音が、部屋のなかまで響いていた。
バスタオルで乱暴に髪を拭いた。シンクの脇にタブレットを置き、Youtubeの水道修理DIY動画を再生しては止めるを繰り返しながら、工具と格闘する。モンキーレンチを蛇口下部のナットに合わせて、キュコキュコと音を鳴らしながら回した。簡単に外れた。
水が滴っている。ゴムパッキンが劣化していた。新しいものに取り替え、元に戻すためにナットを絞めていった。蛇口をひねって水を出してから、止めてみた。ぽつん、ぽつん、ぽつん、と水がステンレスを打つ音がさっきよりも遅くなった。
水漏れは直らなかった。
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