空を飛ぶための手順書
体重が重過ぎてはいけない。胸にありとあらゆる思いが詰まっているといけない。単純に、無意味に、無為に時を過ごすくせをつけないといけない。
少女は十数年の短い人生の中にも、それなりに実のある時を過ごしてきたという自負があった。それは薄く広げた雲のように白く曖昧で掴みどころがなく、記憶に淡く溶けていた。捨てるにも難しく感じられるのは、形や実態がそこにないからだろう。
「それって思い出みたいなもの?」
「思い出っていうより、実感。生きてるっていう実感。私たちの感覚って年齢を重ねていくにつれて薄れていくと思うの。なんていうか、最適化されていくっていうかさ、情報を最小限にしぼりこむような感覚が働くのだと思うの。だから、生きてるって生々しい感覚が残るのはどうしても幼少期に限られるんじゃないかって」
「その感覚を捨てるために、その感覚を思い出す必要がある、と」
「そういうこと」
少女は少年の手を握った。そこに性的な意味を付与しないように努めているのを、少年の方でも感じ取った。彼を促すように手を引き、ブランコの前に横に伸びる鉄の棒を乗り越えると、手を離した。
「ブランコって小さい頃にたくさん乗ったのに、大人になったら乗らなくなった」
「僕らってまだ大人じゃないんじゃない」
「なら、大きくなってから乗らなくなった」
「僕はまだまだ大きくなると思うけど」
「そう」
少年は促されるままブランコに腰掛けた。鉄の鎖の冷たさにためらいながらも、ゆっくりと傾斜をつけて、飛ぶように足を地面から離した。
「うわっ」
幼少期を想起するよりむしろ、まるで異なる新しい感覚に思えた。浮遊。ブランコ特有の浮き立つような感覚は、大きくなって乗れるようになった遊園地のジェットコースターよりもずっと恐ろしく思えた。
「なに、びびってんじゃん」
「うっせえよ。そっちもやってみなって」
少女は少年を笑いながらも、座面を高く上げた瞬間、密かな鼓動の高鳴りを感じた。恐怖、興奮、好奇心。なにが自分を動かしているのだろうか。スカートの端をお尻のしたに差し込み、足を地面から離すと、夜の冷ややかな空気のなかに飛び出した。
「ひやぁっ」
「ほら、言っただろ」
「なにこれ、さいっこうに楽しい!」
少女は浮遊感とともに、上昇にともなう重力の心地よさを感じた。生きている。意味がある。だからこそ、ここから離れられる。捨てられる。これを捨てて自分は自由になれる、空を飛べるのだ。
速度を増した。と同時に座面はほとんど垂直になるまで角度をつけ、そのたびに鉄の鎖がにぶく軋んだ。
少年は不安になった。少女が少年の手の届かない場所へと本当に飛んでいきそうな気がした。空に手を伸ばしても星に手が届かないのと同じこと。すぐ近くにいる少女にすら、手が届かない。大地から離れた二人は、雲のようにつかみどころのない思春期特有の不安感に覆われ、遠くが見えなくなった。
「なあ、気をつけろよ」
「平気だって」
重力加速度と慣性と摩擦という単純な物理法則にしたがって加速と減速をくりかえしながら往来する少女のわずかに日に焼けた肌が蛍光灯のあおい光に照らされるのに、夜よりも暗く見えた。土のように、春に備える生命を静謐の中に宿すように、少女の焼けた肌には新しい季節が隠れている。少年の目にした光景は生々しい生の意味のひとつを成している。少年が空を飛べないのはそのせいだった。
「あぶねえよ」
少女はこぎながら立ち上がり、さらに角度をつけた。
「平気だって」
と言った瞬間、手が鎖から離れ、小さなからだが宙へと放り出された。美しい放物線を描いて前方に投げられたからだは正面の鉄の棒を越え、肩から地面に叩きつけられた。少女は飛べなかった。
「おいっ、大丈夫か!」
少年はブランコから飛び降り、少女のもとへと駆け寄った。
少女は身動きが取れないのか、肩から打ち付けられてくるくると体を何回転かさせてから、仰向けになってぼうと空を見ていた。痛い、の一言も発さなかった。
「おい、平気かよ」
少年は少女の顔を覗き込んだ。こめかみを涙が濡らしていた。
「平気。見て」
少女は空を指差した。求めている自由がそこにあると信じてやまない純真さを、おしみなくあらわにするような笑顔で、なにもない漆黒を指し示した。
「星だよ。都会でも見えるもんだねえ」
「星?」
と少年が空を仰ごうとした刹那、少女は少年のシャツの袖をつかみ、くいっと下へと引いた。少年がバランスを崩して尻もちつくと、ちょうどそれは少女の隣だった。
「意図とは違うけど。ほら、こうしてると空を飛んでるみたいじゃない?」
少年は少女の言葉を微塵も疑わず、隣に仰向けになった。
「どうだろ。でも、綺麗だね」
「それでいいでしょ。それ以上のことなんて、私たちの人生にはないんだから」
「……うん、そうかもしれないね」
少年は星に手を伸ばすことはしなかった。すぐ隣に、少女の手があった。
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