煙と月の絵

 青年は後ろを振り返った。歩き慣れているはずの道が、青年の目にはあたらしく映った。行き交う人々の視線が一瞬だけ青年の上を通り過ぎては消えた。再び歩き出すと、少し前を歩く中年の男が振り返った。男の背広には水平方向に幾本かのしわが走っていた。その顔に、どこか見覚えがある気がした。



 少女が月を描いていたのだと知ったのは三学期の中頃だった。


 彼女に引かれていたという自覚は皆無で、描かれた歪な線とサイケデリックな色彩にだけは、確かに興味を持っていた。描いているのは一作のみで、見るたびに様子が変わった。抽象画というのか、シュルレアリスムというのか、大胆なタッチで繊細に描かれた幾何学的なフォルムは、生物のようでも無生物のようでもあった。

 捉えどころがない。

 何度も重ね塗りされたアクリル絵の具は画布から立体的に浮かび上がり、蛍光灯の光に薄く陰を落としていた。

 無骨だった。

 他の美術部員の描く作品は皆どれも似たようなつまらない色彩と線にあふれているのに、彼女の絵だけが違っていた。

 進学すれば離れ離れになる、それを惜しいとも思わなかったが、いざ上京して生活があらたまると、不思議とその絵が何度も思い出された。

 幅が約七十センチ、高さが九十センチ。美術室に並ぶ絵のなかではひときわ大きなサイズのキャンバスの前に立つ少女は、それとの対比のせいか小さい。彼女はスフマートのように輪郭がぼやけ、そこにいるのを見逃しそうだった。

 おしまい、と言って少女が立ち上がり、短い黒い髪をばさっと縦に振って、あーっ、と声をあげた。ふたりきりの美術室であげられた奇声に驚かないわけがなかった。彼は肩を窄め、睨むように少女を見やった。なに、と睨み返す少女に口をつぐんだ。

 夏の太陽は西に沈み、次第に夜が近づいていた。美術室には真昼の一時間ほどしか日がささないため、彼女の描く絵の色彩の変化で、ようやくそのことに気がついた。

 教室を出る少女を見送った。ドアのガラスが風にカタカタと音を立てて揺れ、夕暮れのほのかに湿る風のなかに、懐かしいにおいがあった。ドアを乱暴に開ける音とともに、髪を濡らした少女が再び入ってきた。

「すごい雨だよ」

 その何気ない一言を覚えている。三学期が訪れるまで、二人が話すことはなかった。


 夏休みは週に一二度、気まぐれに部活に顔を見せた。四人いる三年のうち、そうして顔を見せるのは彼だけだった。二学期に入ると、足が美術室に向くのも二週に一度あれば多いくらいで、受験勉強に本腰を入れ、寸暇を惜しんで学業に勤しんだ。

 冬休み前、少女の大学が決まったことを耳にした。

 地元の短大。絵も美術も関係のない、商業系の学部だった。自分と同じく、絵に特別な感慨を抱いているわけでもなく、大学進学と共に描くことをやめるのだろう。彼はそう思った。

 本命の国立大学は落ちたものの、有名私立大の二校の合格で、ひとまず受験を終えた。一浪するか、滑り止めで満足するか。地元の進学校からなら有名私立大で不満もない。出費はかさむ。学費のみでなく、上京して一人暮らしをするのだ。

 国立大に合格していれば奨学金なしでどうにかなったのだ。彼は将来について打算的に考えざるを得なかった。


 担任への報告のために登校したついでに、美術室に寄った。

 顧問がいた。三月に卒業する者が来るたび作品を持ち帰るように促すのだが、誰一人として持ち帰ってくれないと愚痴をこぼした。仕方なく自分の作品を三枚まとめて持ち出すことにした。

 処分に困ることはわかっていた。思い入れはない。惰性で筆を走らせていただけだ。思春期特有の虚栄心や功名心による夢見がちな創作活動ですらなく、単なる手遊びに過ぎなかった。水飴のようにねばついた同級生たちの歪んだ欲や欺瞞を目の当たりにし、これがこの先も永遠に続くのだと思い倦んで、未明の雪をほのかに照らすような朧月夜のかすかなあかりを、この暗い校舎で探し歩いてみたところで、なにも見つからなかった。自覚していた。そこそこうまい絵が描けること、そこそこうまい絵が描ける人間などごまんといること、そこそこうまい絵を描く人生などなんの意味もないこと。つまらない。

 それでも描いた。筆を走らせ続けている限り、余白は常に鮮やかな色彩で埋められるのだ。

 

 今では使われていない、古い焼却炉があった。昔はここで燃えるゴミや、校内の落ち葉や枯れ枝などを燃やしていたらしい。ちょうど美術室の裏手にあり、教室から外に出て、ぐるりと校舎の角を回って行けば、古びた灰色の煙突と、薄汚れたコンクリートブロックの土台が、ひっそりとすみで佇んでいる。

 麻の布地と木材の枠からなるキャンバスなら燃えるはずだ。油絵具もその名に油が含まれるくらいだから燃えるだろう。

 彼はためらいもなく焼却炉の蓋を開けた。先客がいた。

「あんたも燃やすの?」

 長かった髪は、会わないうちに耳が見えるほど短くなっていた。

「うん。そっちも」

「うん。完成したから」

 焼却炉に淡い光がさし、少女の絵を照らしていた。荒々しく重ねられていたはずの色彩は、暗闇のなかでは不思議と白く光って見えた。なんとなく、よく燃えそうだと思った。

 彼は自分の絵をそこに重ね、振り返った。

「火、持ってる?」

 少女はうん、と頷いた。どこから調達してきたのか、その手には新聞紙とマッチが握られていた。

「着くかな」

「ちょっと待って」

 彼は再び焼却炉を覗くと、上体を半分ほど中に突っ込んだ。自分の絵を一つ取り出し、焼却炉の前に斜めに立てかけた。そして勢いよく足を踏み出し、すみにぐっと体重を乗せた。パキンと軽い音が鳴った。画布と枠組みが外れ、手頃の木片ができあがった。

「これ、使って」

「ありがと」

 マッチに火を灯し、新聞紙、木片と、次第に火を大きくし、焼却炉に投げ込んだ。

「ここから空気、吹き込むんじゃない?」

 少女が指さした先の草の隙間にコンクリートブロック一つ分の穴があった。

「わかったよ」

 指図するような少女の態度に、彼はしぶしぶしゃがみ込むと、フーッと息を吹き入れた。奏功したのか、しばらくは燻っていたキャンバスに、ようやく橙色の炎が灯った。

「これで平気だよ」

「うん、ありがとう」

 煙突ではなく、どこか隙間から漏れた煙がたかく上がった。空気を吹き込むまでもなく、吐き出された煙の分だけ、下から吸い込んでいる。もうなにもする必要はない。炎が目に染み、涙が滲む。

 彼は空を見上げた。高くあがった白煙は風に巻かれ、やがて見えなくなった。



 焼却炉のなかでうっすらと白く光るように感じられた。月の絵だという根拠は、それで十分だった。少女の顔はもう思い出せない。

 彼は立ち止まる男を追い越し、駅の改札へと続く長い人の群れへと混ざった。

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