表面張力
いっぱいに水を注ぐには少しコツがいる。それを飲むにはもう少しコツがいる。
少女は慎重に蛇口を捻り、緩やかに水を注いだ。補足長く流れる水の奥に、シンクの白い水垢がきらきらと光っていた。ぎりぎりまで水かさが増し、コップの縁から一ミリくらい高く浮き上がったところで蛇口を締めた。あふれてはいない。コップの位置を動かすことなく、ゆっくりと顔を近づけ、血の気の引いた紫色の唇を縁にあてて啜った。
ズズズッとだらしない音が小さなキッチンに響いた。締めたつもりの蛇口から水滴が垂れ、シンクの底を打った。また打った。一定のリズムで鳴る音が心地良くて、音を立ててコップの水を啜りながら、意味もなく漏れる水を見ていた。
少女がこうして無為を過ごすのが許されるのも、兄も両親も今日は不在だからだった。普段は彼らと共に時を過ごすのを避けるために部屋にこもりきりだ。少女にとっての世界のほとんどは、パソコンの画面の向こう側にある。その世界というものが、本当にどこかにあるのだろうか、と時々は考えてみるものの、少女にとってはこれといって重要なことではなかった。ゲームと部屋と家。そして学校。少女にとってのリアルはその世界にしかない。
ほとんど義務といっても過言ではないほど律儀にデイリークエストをこなしては、原石やコインを得ていた。少女の世界では先月からNFTが導入され、それ以前から所有していたアイテムやキャラには固有のコードが割り振られた。少女の所有しているアイテムやキャラは、少女だけの所有物となったのだ。さらにはこのアップデートにより、プレイヤーのランキングに比例し、実質的にその人の富裕度を表すことになった。
「馬鹿が。所詮はゲーム内の話だろう」
といっていた父が手のひらを返したのは、少女の持つレアアイテムの一つが三ビットコインほどの値がついていると知ったからだった。それ以来、父は口を出さなくなった。少女は嫌悪感を抱いた。ゲーム内での優位性は資本主義社会と本質的に差異がない。つまり、先行して巨大な資本を持っている者が圧倒的な優位に立ち、その優位性がゆるがないよう慎重に行動する節度と、わずかにその領域からはみ出る勇気を持つものだけが、継続的に成功を収めることができるのだ。少女にはその才能があった。ならばなぜ世間でうまく生きることができないのだろうか。どうして高が学校と思うようなつまらない場所に行くことを考えるだけで、腹の奥に鉛のように重たく冷たい感触が沈んでいくのを感じるのか。少女にはまだわからなかった。
「それでもね、現実でしか得られないものだってあると思うわよ」
母は依然として少女がそうして部屋にこもるのに否定的だった。世間一般で忌避されるひきこもりと呼ばれる立場だった少女は、いつのまにか家族でもっとも稼ぐ成功者に転じた。母の言葉は単なるやっかみだと受け取った。母は毎日家事をこなしながら、週に四日、パートで働いていた。
「なあ、俺にも教えてくれよ」
小さい頃、少女にゲームを教えたのは兄だった。兄はいつの間にか友人と共に時間を過ごすことが増え、少女のようにゲームに時間を費やすことがなくなっていた。裏切ったくせに、と少女は思った。ゲームをやめたくせに、お金が稼げるとわかった途端に元の鞘に戻ろうなどと、誰がそんな男を許すというのだろうか。はっきりと口にはしなかったが、兄はなにかを察し、すぐに諦めたようだった。
学校に居場所のない少女は、家にも居場所を失った。そうしてますますパソコン画面の奥にある世界にのめり込んでいった。
三百ミリリットルほどの僅かな水を飲むのに一時間以上もかかった。時間の流れが歪んでいる。世界の時間は家で過ごす時間よりも鋭く、研ぎ澄まされている。一般的に現実と呼ばれる時間では、情報が過剰で、処理が追いつかず、変化を追いきれない。少女だけが置いてかれた。限定された理想的な空間に生きるからこそ、時間を有意義に使える。だが、無為に過ごすことが悪いとは思わない。
喉を流れおちる冷たい水の感触は、向こうの世界では絶対に味わうことのできない感覚だった。
少女は再びコップに水を注いだ。ぎりぎりいっぱい、縁で水が一ミリほど盛り上がるくらいまで。そのままコップを横に置いた。こぼれなかった。
——大丈夫。まだこぼれない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。と口に出してみた瞬間に、ついに水がこぼれた。
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