夢で見た人たち

 部屋は暗かった。

 エアコンの室外機が唸り、時々思い出したかのようにカランカランと高い音を鳴らしている。

 男は毛布のしたから手を伸ばし、窓に触れた。無数の小さなわらび餅を並べたようなガラスから光の粒が流れ落ち、トレーナーの袖口を濡らした。結露した窓は氷のように冷たかった。上空に流れ込んだ寒気の影響で朝は冷える、と昨夜のニュースで誰かが言っていたのがついさっきのことのように思えるのにどこか遠い。眠りは意識と意識の間を瞬間移動させない。記憶がこぼれ落ちても、粘着質な夢の感覚だけは滞っている。

 カーテンの隙間から光が漏れ、宙を漂う埃を煌めかせていた。ふーっと吐く息は白く湿り、渦巻く埃と混ざり合ってすぐに消えた。朝と夜が糸のように細く伸びて絡まり、殺風景な部屋にいく筋もの光と闇を成しては数多の夜の記憶を蘇らせる。届かないはずの記憶、こぼれ落ちてしまったはずの夢の記憶だった。曖昧な生死のあわいを漂うような、生温くねっとりした液体に浸かるような無感覚が男を飲みこみ、そこにはなかったはずの新しい夢へと誘おうとした。

 そのうち空気の動きは落ち着き、微かな光のなかへと、ゆっくりとアルコールの香気が落ちてきた。

 朝だ、と男は思った。

 陽光が容赦無く夜を散らし、曖昧だったはずの虚実の境界にくっきりと白い線を引いた。


「私たちが忘れた記憶が沈んで澱になる場所が、この世界のどこかにあると思うの」


 雪のように澄んだ声だった。記憶を探しても糸口は見つからず、雪を割って流れる小川の音だけが聞こえた。しんしんと降る雪の重みで軋む、建物の梁や柱の哀哭のようでもあった。濡れた窓より冷たい記憶だった。

 


 坂の上の校舎からは街全体が一望できた。雪の降った朝、白一色に染まった長い坂道を歩く黒い制服姿の学生たちはさながら、ご飯にまぶした黒胡麻だ。ふわりとただよう香気を、現実の白い息がすぐさまかき消した。屋内でも廊下は冷えたが、外はなお冷える。八時半。腕時計の分針に急かされ、男は足早に渡り廊下を通り過ぎた。

 職員室には既に多くの同僚が出勤し、今日1日の授業の準備を始めていた。近くのデスクに簡単な挨拶をして、同じように準備を始めた。

 デスクに小テストや課題のプリントを並べた。印刷された束はそれぞれ色付きの用紙で挟まれ、色調に気をつけて重ねれば、それは虹のように華やかだった。

 授業の進捗が異なるため、同じ学年のクラスを受け持っていると混同してしまう。それを避けるため、クラスごとに色分けすることにした。

 似たような顔をした生徒たちが整然とした教室にところせましと並ぶ。ひとりひとり違う顔を持ち、違う個性を持ち、違う人間である。男は最後までそれを実感できなかった。子供たちはどこかで大量生産された工業製品のように思えた。

 男はある時、同じテストを同じクラスで行うという失敗を犯した。生徒の誰一人として指摘するものはいなかった。別のクラスで課題のプリントを配ったことではじめてそれが知れた。成績評価に一度目の小テストを採用すべきか、二度目の小テストを採用すべきかで教員間で意見が対立した。と同時に、男は職員室で孤立した。ただでさえ多忙な教員たちに、ひとつ面倒な仕事を増やしたのだ。結局、教頭の鶴の一声で二度目の小テストを採用することに決まったが、不公平だという声はどのクラスからも絶えず上がり、敵意は全て男に集まった。教室内での鼎の軽重を問われた男は、時間を待たずにその権威は易々と失墜した。

 失われた信頼を取り戻すには長い時間がかかる。と言った学年主任は男の学生時代の担任であり、恩師でもあった。

「ゆっくり時間をかけて、また一から作っていくしかないのですよ。私だって何度も同じ失敗をしたものですから」

 ゆっくり時間をかけて。男はそのつもりだった。途方もなく長い坂をのぼる生徒たちが人間とは違うなにかにしか見えなくなっていたのも、徐々に回復すべき問題の一つとして捉えていた。

 教室のドアを開けると、人々の視線が一点に集まった。気にもとめず、男は淡々とした口調で授業の概要を説明した。生徒たちは素直に聞いていた。男がプリントを配ると、一番前の席の男子がそれを突き返して言った。

「先生、これ昨日もやったよ」

 ゆっくり時間をかけて。ひとつひとつ取り戻すつもりが、また振り出しに戻ったと知った男は、瞬間的に息ができなくなった。些細な失敗が蓄積されて男の胸の奥に冷たいかたまりになって沈んでいく。重く沈んだそのかたまりがいつのまにか膨らみ、内側から男を食い破っていく。虫だ、と男は思った。蝶にも蛹にもなれない大きな芋虫が、男の負の感情を食いながら、胸の内でぶくぶくと太っていく。ゆっくり時間をかけて。ゆっくり時間をかけて。作っていったのは、黒い冷たい穴だった。



 目をつむったまま窓に手を伸ばした。結露していた表面は乾き、ガラスを通して外気の冷たさだけが伝わった。男はまぶたを上げた。涙で濡れた目をこすってから、カーテンの隙間から差す光をみやった。ぼやけて曖昧な光からはなにも見出せなかった。


「ここがその場所かもしれないよ」


 動くどころか、呼吸すらも煩わしい。胸の内の虫がすべての物憂さをはやく食い尽くしてはくれないかと願いながら、男は三度、まぶたを閉じた。

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