街と塔
『さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう』— 「創世記」11章1-9節
雪が降っていた。冬の真夜中の空はやけにうらさびしく白み、コンビニのけたたましい赤と緑の光ですらも、その色が行き交う人にとっての末期の慰めかのようだった。
男は眠い目をこすりながら、ぽつぽつと落ちてはすぐにアスファルトに融け、黒く染みていく雪を見ていた。宙に浮いている間は街灯に照らされて銀色だったはずのそれは、地面に落ちた瞬間に色を変えて広がって消えていった。
ほほを撫でる雪の冷たい感触が肌に深く沈んでいく。冷気が貫いた穴はどこに繋がっているのだろう。中心は真っ暗で光も風も届かず、匂いも味もない。澄んだ雪から冷気だけを削いで集めだ黒いかたまり以外、そこにはなにもない。そんな空間が、からだのどこかに空いているという確信だけが、男にとっては生きる
アスファルトが昼の熱を保てなくなると、黒を覆うように斑模様の白が広がった。薄灰色の雲に覆われ空は、街の光を吸っていつもよりふくらんでいる。男が足を一歩踏み出すと、ぴちゃっぴちゃっと音を立てて水が跳ねた。水と氷の混ざった白い地面は、踏んだ瞬間に水になり、表面から僅かに浮いた灰色の雪がわずかに残っている。男の歩いた場所だけが融け、黒い跡になった。
目的地のない散歩とも逃避ともわからぬ歩みはとどまることを知らず、ただ闇雲に前へと進んだ。靴下まで融けた雪が染みた。光が見えると、それを目指して歩いた。たどり着くとそれが街灯だと気がつき、そうしてまた別の遠い光を目指して歩く、その繰り返しだった。
夜の歩みは静かに、だが確実に進んだ。男が歩く速度よりもいくらか遅く、夜は更けていった。時計を持たない男の時間は見たものと思い出したものに依存した。過去と新たに過去になるものとの量だけが時間の長さを決めた。男は歩いてきた道を振り返って見た。いつのまにか強くなった雪が地面を覆っていた。コートに積もる雪を手で払ってから、また新しい光を見出し、そこに向かって歩き始めた。
茫漠とした視界を埋める白と黒の成す光景の中にすら希望を見出す男のひたむきさに、神は
数えきれぬほどの光を目指した。その度に、それが男の求めている光ではないのだと悟った。繰り返しが無意味だと感じたとしても、繰り返すことだけが男の生きる
建設中のビルが聳えていた。かつて人間が天に挑んだ神話を無視するかのような高い塔の上からは斜めに鉄骨の首が伸び、先端から垂れるワイヤーが風に揺れていた。
街とその塔は、いつか崩壊する憂き目に遭う。その前に一度だけ、天に近づいて地上を覗いて見たいと男は思った。そこにはきっと、まだ男の言葉が通じる人々がいるはずだ。空を抜けた先にあるのは宇宙で、神々の国ではないのは知っている。冷たくて、音も匂いも風もなくて、天国などといえた代物ではないが、光だけは届く。この罪と苦しみを誰かと分かち合うことが神の恩寵だと、確証が得たかった。終わると知っていても、死ぬと知っていても、いずれ罪が贖われると信じたかった。——男は予め罪人だ。
足は自ずと建設中の高層ビルへと向いた。近づくに従って視界を高い建物が埋めた。真夜中だというのに人は多かった。眠らない街と呼ばれる場所から天へと放たれるぼんやりとした光が雲を照らしているのだろう、薄灰色の空が遠くまで仄かに明るかった。塔の下まで来ると、空の明るさは気にならなくなった。雪はアスファルトを埋め、男の歩いた足跡もついに降る雪に隠されて消えた。注意深く見なければ、男がそこにいたことなど誰も知ることはない。そしてきっと朝になれば、太陽が夜の記憶を空に還してしまう。予め定められている。
男が高層ビルを囲む白い塀を巡るうちに、途中で隣のビルにぶつかった。そのビルの三階から建設中のビルへと忍び込めそうだったが、正面の入り口は閉じていた。今も使われているのかもわからないほど寂れている。
男は周囲を見回してから、隣のビルの壁と白い塀の間の人一人がぎりぎり通れるほどの隙間にからだを滑り込ませた。胸や頬を擦りながら横向きに進んだ。両端から一番遠い場所に小さな窓がある。施錠されていないのでは、という男の期待はすぐに裏切られた。手を伸ばしてアルミ製の枠を押してもびくともしなかった。だが、脇の換気口ならどうだろうか。両手を伸ばし、換気口の外枠を外した。拍子抜けするほど簡単に取れた。白い塀とビルの壁とに手足を突っ張って登ると、金属製の塀は大きくたわんだものの、バランスを立て直しながら、なんとか排気口の一部に足を掛けた。
——のぼったからと言って何を得られるというのだろうか。
外からファンを蹴飛ばすと、支えていた上下の金具が大きく撓み、もう一度、今度はさっきよりも力を込めて蹴飛ばすと、ファンと土台丸ごと内側へと落ちた。ガチャンとぎこちない金属音が外まで響いた。
からだ一つがすっぽり収まる大きさの穴に仰向けのまま入ってから、ちょうど真ん中のところで百八十度からだを回転させ、腹を縁に当てて腰を曲げ、底の見えない床へとゆっくりと降り立った。
ロッカーの並ぶ小部屋だった。屋内には誰もいなかった。非常灯の淡い光に照らされたリノリウムの床から、冷たい空気が足に沿って這うように上がってくる。廃ビルであれば非常灯などついていないはずだ。忍び込んだとて警報装置が働く様子はない。使われてはいるが、古い。屋内に貴重なものはないと見える。
都会のビルの群れも駅から少し外れるだけでがらんと様子が変わった。隣に新しいビルが建つというのに、時代から取り残されたようなこの建物は、コンクリートに埋もれた化石のように、死んだ時のままの姿形で時代を越えてその場に居座っているかのようだった。男はその体内を静かに歩みながら、自分までもが化石になるような気がした。
誰もいない廊下を抜け、暗い階段を手探りで三階まで上がった。そして忍び込んだのと同じように、隣のビルへと伝って入れそうな手頃な部屋を見つけ、窓から建設中のビルへと飛び降りた。雪は積もっていなかった。遠くからはカーテンウォールで下層階が覆われているように見えたが、実際は一部にしか壁はない。男はそこから建設中のビルの中へと入った。
階段を上がった。作業員はおろか警備員の姿も見当たらない。年の瀬。冬至。誰もが家族と共に時を過ごしている。人がいないのも頷ける。靴底が剥き出しのままの踏面をかんかんと叩いた。からっぽの内装のせいか、足音はうわんうわんと唸るように屋内に響いた。誰かいるなら、もうとうに気づいているはずだ。慌てるでもなく、男は一段ずつ足を運んだ。
途中から階段がなくなり、仮設の足場からいかにも脆そうな梯子が上へと伸びていた。
男が仰いだ視界の先には天井はなく、直接雪が吹き込んできた。荒々しい鉄骨が垂直に薄灰色の雲へと伸び、少し広くなった足場から斜めにクレーンの首が突き出していた。
街で一番空に近い場所だ。
経路を確認してから慎重に足を梯子に乗せていく。空が近づく。上がり切った先の足場が不安定で、風が吹くたびに揺れた。雪が積もって滑りやすく、歩みが一層と慎重になった。
中途半端で終わるわけにはいかない。
パイプ一本が横に連なるだけの頼りない手すりを伝いながら、ようやくクレーンの根元に至った。
ビルの下にいた時よりも雪は強まっていた。視界の水平の面はすべて白で埋められ、看板やディスプレイの煌びやかな光が普段よりも際立って明るく見えた。街を行き交う人々が遥か高い場所の男の存在に気がつくことはなさそうだった。傘を差す人は空を塞いでいるし、傘を持たない人も皆うつむき加減に歩いていた。男の方を見据えたとしても、絶えず降る雪に紛れてそこに男を見出すことは容易ではないはずだ。
男はクレーンの首の上にうつ伏せになり、先端へと這って行った。視界は次第に開けた。鉄骨に重なる白い雪を赤くなった指先で払い落とすと、雪はかたまりのまま、趣もなく建設中のビルの闇に消えた。落ちる雪など気にも留めなかった。先端へ近づくにつれ、降る雪が弱まった。空を見上げた。薄灰色に街の光を吸って膨らんでいた空はいつしか藍色に萎み、冬の星座が密かに照っていた。
この街でも星が見えるものか。
男は珍しく故郷を思い出し、感傷に浸った。消したはずの過去、ないものとしていた過去が明瞭な輪郭を持って眼前に描き出された。星を見た夜のこと、隣にいた少女のこと、帰って父にえらくどやされたこと、そうした人々と別れて初めてこの街を訪れた日のこと。
男は再び、行く手を遮る雪を払い落とした。
先端からは荷重を支えるための二本のワイヤーが土台に向かって伸び、三角形を成していた。土台部分もまた、垂直と斜めの支柱で三角形を成していた。男は今更ながら、その造作が美しいと思った。下から仰いだ空に描かれる三角形と、空に瞬く星の三角形とでは形が違う。男の遥か遠い記憶に残る、あの星空に輝くのは、クレーンと同じ直角三角形だ。
男はただ、無くした場所に帰ろうと思っただけだった。
『我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように』
——崩壊は予め生じていたのか。
男はクレーンの先端に立った。
自分だけが孤独なのではなかった。天に優越を得ようとした不遜が平等に罪と罰を齎し、人々が二度と繋がり合えないよう、予め離散していた。
青天の霹靂に撃たれ、驚きと共に、不意に不思議な安心感に満たされた。
雪が温かく感じられた。祖父の教えか、祖母の教えかは思い出せない。雪は死んだ星の一部なのだ。また、どちらかが言った。星は死んで天に昇った人だと。嘘ではなかった。
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