没個性主義的個性の唯一性

 錯覚を矯正するために中心部が上下端よりも僅かに太くなっているのだと説明されても、真っ直ぐに高く伸びているようにしか見えなかった。柱は黒く煤けた太い梁を支えていた。さらに上にかかる束や垂木、屋根の荷重に耐えるにはそれだけの太さが必要なのだという。

 ——じゃあ、私のからだやこころは。

 女は問いを飲み込み、バッグの中に手を入れた。スマホの画面にたくさんの通知が並んでいた。ここではないどこかの誰かが女を求めて送ったメッセージは欲を上手に愛と象った衣装をまとった男たちの狩の軌跡だった。

 縁には暗い影が落ち、しんと静かななかに人の歩く軋みが響いた。男の一歩の方が重い。あるいは乱暴だからだろうか。ぎいっと、一層と不器用な音が鳴った。耳をくすぐるような、快と不快の混じり合うような音だった。女はそれを、嫌いじゃないと思った。

 夕暮れ時の東面から望む眼下の丘では、小さな群れをなすようにしてところどころ紅葉していた。赤は成熟を思わせた。これから落葉しようという木々の梢を見下ろしながら、焦燥とも言えぬほどの億劫さが女の心に触れる。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。風が吹いただけだ。冷たい。冬は長けてきた。


 二十八歳。自分が成熟した存在とは程遠いことを知りながらも、世間一般で大人として数えられることが堪え難かった。流行りのファッションに身を包んで無邪気に笑っている若者としての自認をいつまでも持っていたかった。恋愛話に花を咲かせて友人と夜更けまで電話して寝不足で学校や会社に行く女子でいたかった。アイドルとか声優とか俳優とかバンドとかを追いかけてしんどいとか尊いとか言ってるだけのファンでいたかった。

 そんなことして何の価値があるの。結婚しないの。子供とか家族とか将来とか考えないの。彼氏いないの。

 問いは女を追い詰めた。問いから逃れるために女は、周囲が求める幸福と同じものを求めることにした。それは、小中高、そして大学、社会人と進む過程でなにひとつとして変わっていなかった。女は自分の価値観といえるほどのものはなにも持たなかった。

 ならば、誰かの価値観を着て生きていけば良い。それが単純で簡単だ。

 個性から遠ざかること、没個性を極限まで突き詰めること、そうして到達する地点こそが、女にとっては本当の自分のある場所なのだ。とどのつまり、これが女の自分探しの旅なのだった。


「冷えますね。お茶でもしますか」

「ええ、そうですね」

 古びた日本建築を改装した、小洒落たカフェに入った。観光地特有の美味くもない熱い茶と菓子を口にしつつ、二言三言言葉がぽろぽろとこぼれただけで、二人の会話が弾むことはなかった。

 女は、今日もこれ限りか、と妙に納得していた。多くを期待してはいなかった。男がぽつりと吐く言葉に意味があるとは思えなかった。希望の灯火だと思っていたお茶の誘いさえもまた、蝋燭の火のように揺れ、消えかけていた。

 女にとって目の前で一生懸命にわらび餅と格闘するその男は、没個性のを平凡なままで土に埋めてくれる人に思えた。それこそ、女にとっては理想的な相手だった。女に対して、ただ社会的な平凡さだけを求める男。女もまた、男に対して社会的な平凡さだけを求める。そうして互いに没個性性の此岸から対岸を見やって、個性を羨むだけの人生に満足する。

 ——個性なんて糞食らえ。私は私じゃなくていい。私以外の私が私でないのは当たり前だ。だったら、私が私以外の誰かであることをほとんど完全に装えるのであれば、私は完全に私から逃れた没個性としての個性を備えることができるのだから。

「できればもう一度、お誘いしたいのですが」

「ええ、私もそう思っていたところです」

 カフェを出ると、男が女の手を掴んだ。女は反射的に手を引っ込めそうになりながらも、拒まずに受け入れた。それが女の意志だった。


 スマホ画面を何度もスワイプして次の顔を表示させた。顔だけ見てもどのような人かわからないのと同じように、一度デートしただけで人のことを正確に知れるわけがなかった。

 条件でフィルターされた異性が現れては消える画面に触れるだけでも女は自分と世界がなにか共通項を持っていると錯覚した。

 女の求める没個性を抽出するのは不可能だった。柱の中央の太くなっている様を思い出し、目の前のビルの四角いコンクリートか鉄かもわからぬビルの柱を見上げた。まっすぐ高く、空に向かって伸びていた。実直に見えた彼ももしかしたらこの柱のように僅かに内に傾いて見えるのかもしれない。そう思った途端に、ビルのカーテンウォールからひとひらの光が夜のように女の目を射抜いた。

 空ばかり見上げていても良いことはない。女がそう思って落とした視線の先には、誰かのボロボロの名刺が落ちていた。——きっと彼もこうした退屈な名刺を持っているのだろう。彼の名刺。見てみたい。

 短いメッセージをスマホに打ち込んでみたものの、男に送ることはなかった。じきに会えるのだ。

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