星屑、重力加速度、大地、時間

 三半規管*が加速を察知するよりも早く、鼓動の高まりは空に近づいていることを教えてくれた。

 心臓が一分間に百回ほど収縮しては、とくとくとくとくとくとお酒を注ぐみたいなリズムを鳴らして、全身に張り巡らされた血管の細部にまで酸素と栄養を送り込んでいる。それと呼応するエレベーターのワイヤーの軋みは、すぐに聞こえなくなった。

 一定の速度で上昇しているのだ。

 あっという間に気圧が下がり、からだの内の圧力の相対的な高まりとともに秘められた思いが傷口から漏れそうになり、私はあわてて口元へと手を当てた。指の隙間から微かに熱い息がこぼれた。

(口内炎、痛いな……)

 弧を描くように頬の内側を舐め回すと、舌に鉄の苦味が広がった。

 腫れた部位を噛んでは腫れ、噛んでは腫れの反復で、傷は治らない。いくら気をつけていても、私は何度でも同じ過ちを繰り返す。熱いと君が教えてくれたグラタンで、今日も唇を火傷した。——だから今日も、キスすらできずに一日を終えるのだ。

「あぁ」とひばりのような高い声が響いた。

 エレベーター内に何本も渡されたきらめく緊張の糸が切れ、四方に雫のような白い光の粒子が飛び散った。

 薄暗闇で映像が瞳に飛び込んでは一瞬だけ網膜に焼きついて消える、その不毛な明滅の繰り返しに、隣の少女が思わず感嘆の声をあげたのだ。

「綺麗だね」

 少女に応じるかのように君が言った。

 エレベーターが上昇していることを乗客に知らしめるための安っぽい演出だった。綺麗という言葉を使うのが憚られた。箱の中を這う光の粒子は無機質でひんやりして、ピエロの笑みと涙のようにどこかちぐはぐで空々しい気がした。

 なのになぜか私の鼓動はいつまでも治まらなかった。

 君が隣にいるからだろうか。夏に一緒に見た、交配のために異性を誘う蛍に似た儚くも卑しい灯火を思い起こすからだろうか。あるいは、地上から遠ざかることへの不安が心を揺さぶるからだろうか。

「うん」と、私は君にだけ聞こえる声で囁いた。

 君は声を出さずに笑った。


 さらに空に近づき、にわかに空気が変わった。

 曖昧模糊としていた光がいつの間にか明瞭な輪郭を描き出し、雨のあとの蜘蛛の巣を濡らす水滴のように、エレベーターの闇の中できらきらと輝いた。まるで夜空に光る銀の月から一粒の真珠がこぼれ落ち、に絡めとられて風に震えるような美しい光景に、私は不覚にも目を奪われた。

(これは、夢かもしれない)

 虚ろな空には、今日も月が浮かんでいるはずだ。

 月の光も還元すれば、太陽の核融合反応の結果生じた光を反射しているだけだ。水素やヘリウムが重い原子に変化する過程で生み出されるエネルギーに過ぎない。と、ならそんなことを言っただろう。

 恋や愛という陳腐な言葉で、多くの欲を鮮やかに装飾してきた。綺麗だね、なんて軽い言葉で、無数の過去を塗りつぶしてきた。その欺瞞を暴いたのがだった。

 私は偽りの光を美しいと思い、きらめく嘘をまとい、鮮やかに着飾って君と空で踊る。胸が高鳴る。鼓動のリズムに合わせて全身からわら湧き上がるように細胞が蠢く。

 私は君を求めている。君は私を求めている。単なる性欲であるとしても、生物学的に還元される動物としての本能だとしても、それは、その瞬間だけは、真実と同じ輝きを宿している。

 君も私と同じだ。このささやかな嘘と虚飾と勘違いとを、誰に責めることができるか。

(これは、夢かもしれない。)


 君は暗がりに手を伸ばした。

 私の手を見つけると、いつもより強く握った。君の手は生き急ぐように速く脈打ち、熱く、少し湿っていた。

 上昇は続いた。


 地上で私を圧迫していた空気の層が薄くなっただけで、不思議と身体が浮き立つような心持ちになる。地面から遠い。大地を踏みしめる感触が欠けている。それだけで私という存在の根拠が薄らいでいった。

 学生の頃、はder Grundというドイツ語を教えてくれた。

 エレベーターが地上十四階から四十五階まで上昇していくのに伴って、私の肉体はder Grundから徐々に遠ざかっていく。

 私が私であることを証明するものが、手に熱く感じる君ではないことを知りながら、der Grundだって実際は空虚ではないかといって拒もうとしている。私は君にのことを打ち明けてはいない。der Grundに直に立っていた時と同じ圧力のままの、同じ熱のままの秘密が、生きる理由の乏しい希薄な空へと逃げだそうとしている、のいる場所へと帰ろうとしている、私のからだから遠ざかろうとしている。

 私はもう一度、口元へと手を当てた。

 どうせ秘め続けることなどできないとは知りながらも、ここで口にするわけにはいかない。

 眉を顰め、息を潜め、溢れ出しそうな言葉の数々を抑えつけ、今のいる場所へと近づいていく。der Grundにはもう、はいない。




 君は心配してくれたのか、頭をもたげて私の顔を覗きこんだ。問うような君の瞳には、天井に照る偽りの光が映り込んでいた。抉り出して永遠に閉じ込めたいと思うほどに君の瞳は透明だった。

 私は首を振った。言葉なくかわされた仕草の意味を互いに完全に了解したわけではなかった。それでもその瞬間、それだけで十分だった。

 君は私の手をさっきよりもさらに強く握った。

 暗闇の中で光の粒が糸を縒るように線をなし、編み込まれるように面となって広がり、溢れ出した光に空間が満たされたと思うや否や、今度こそはと、三半規管がエレベーターの減速を感じ取った。

(ああ、空が近い)

 光が輪になって人々を包み込むと、静謐とともに再び闇が訪れた。減速が終わった。

 扉が開くと思ったのに、しばらくなにも起こらなかった。

 感嘆の声を上げたひばりの声の少女は闇に溶けて見えない。隣にいる君も同じく見えず、熱く湿った手だけがそこにあった。

 扉は開かない。他の人の気配もない。

 握る手が君のものなのかのものなのか、私にはわからなくなった。空に近づいた。私は今、の近くにいる。君の手を握りながら、私はあなたのことばかり考えていた。

 ぷしゅっと空気の抜けるような音が聞こえ、ようやく扉が開いた。


 順路通りに暗い道を進むと長いエスカレーターがあった。演出が止むことはなく、視界の端を光が右へ左へと走っていた。一段上に乗った君が、振り返って私の髪に触れた。は一度だって私を子供のように扱うことはなかった。君との重なりがゆっくりと解けていき、エスカレーターを上がり切った頃には完全に離れていた。

 白を基調にしたロッカールームは明るかった。

 係員の案内はどこか流れ作業のような淡白さで、検温、アルコール消毒後、順々にロッカーへと荷物をしまうように促された。安全上の理由でバッグや帽子は屋上には持ち込めないと説明された。新たに始めようと考える私にとっては、どちらも必要のないものだった。

 ずらりと並ぶロッカーの数々を間にして、君は財布から百円を取り出した。

「荷物、一緒に入れなよ」といって振り返った。君が選んだのは一番端の、一番下のロッカーだった。

「ありがとう」と私は答え、バッグをロッカーに入れた。

 君はロッカーの内側の投入口に百円を滑らせた。チャリンと軽やかな音が鳴った。閉めてから鍵を引き抜いた。

 係員の案内に忠実に従う君の所作は機械のように完璧だった。一部も欠けるところがない。規範や規律に抗うことなく当然のこととして受け入れてしまう従順さは、きっと君の美点だ。

とは大違いよ)

 と、声に出しそうになる自分に驚いた。私は急におかしくなって、声を上げて笑った。隣の君も、わけもわからず笑った。理由など必要なかった。二人は四十六階のフロアに立っている。高揚感、というより浮遊感とでも言うべきか、ほとんどからっぽにちかいほど薄まった空気に、本当に音が響くものかと確かめたくなったのかもしれない。二人の間の笑いにはその程度の意味しかなかった。

「こちらになります」

 紺色のブレザーに身を包んだ黒髪の女性が手を広げて示す方向へと、私たちはまっすぐに歩き出した。

「あちらの自動扉を出て、右手のエスカレータから屋上に出られます。ごゆっくりお過ごしください」

 丁寧に頭を下げる女性に応じ、律儀に君も会釈した。マスクの下でくすりと笑うのがわかった。

 私はマスクをしていない君の顔を二、三度しか見たことがない。マスクをしている君が、私にとっての君だ。マスクをしているをほとんど見たことがない。マスクをしていないが、私にとってのだった。

 私と君を隔てている薄い三層の不織布と、私とを隔てる空とは、どちらが分厚いのだろう。

 女性は私と君を見送ると、別の客に案内を始めた。


 君が私の手を引き、外へ出た。

 冷たい風が高くから吹き下ろし、整えた君の髪が乱れた。不機嫌そうにそれを直してから、歩みを前に進めた。私も歩調を君に揃え、一歩、また一歩と前に足を出した。

 ガラスの壁と壁の交わる角にの人が集まっているところへと、君は手を引く。透明なガラスを通して街の光が目に映る。人が角から退くと、君は私の手を強く引いた。空の高みから見下ろすder Grundには数えきれないほどたくさんの小さな光が輝いていた。

 迷いのない光。

 十年前はそこになかったはずの光。

 十年後にはそこにないかもしれない光。

 空を仰ぐと、一つとして星は見えない。十年以上も前から、そして十年以上も先でも、輝いているはずの星は、そこには見えなかった。だけど不思議と、ないはずのそれがそこにあると、信じることができた。

 der Grundから離れて、理由も根拠もなく、ただ手に感じる熱を信じることでしか、私にとっての救いはないのかもしれない。それが嘘でも、それが錯覚でも、それでも。


 今から私はに一番近い場所でさよならをして、君と生きることに決めたのだと、そう告げる。



















*重力を感知するのは三半規管ではなく耳石器ですが、語感の都合により三半規管としました。

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