桎梏

 くそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがとディスプレイに並ぶ同じ言葉の連続に我ながらうんざりしながらも、もう一度K・U・S・O・G・Aとタイプしてから最後にEnterKeyを叩くと、執務室にカツンと高い音が響いた。

 窓側のデスクだけが煌々と青白い光を放っている。

 男は手元のカップに手を伸ばして口に寄せてから、ずっと前からそれが空であることを思い出した。チッと舌打ちし、後ろを振り返りもせず椅子を引き、立ち上がった。誰かがそこに立っているわけがない、気にする理由などないのだと、まるで自らに言い聞かせるかのようだった。

 執務室の扉の近くは非常灯が灯り、微かに明るい。その扉の脇に、給茶器を兼ねた給湯器があった。

 男は脇の袖机の引き出しから、瓶入りのインスタントコーヒーを取り出した。カップの縁には、男が繰り返した徹夜作業の歴史を物語るように、コーヒーの染みがこびりついていた。そのカップに、たっぷりと顆粒状のインスタントコーヒーを流し込み、お湯を注いだ。跳ねた湯が手の甲を濡らした。熱いはずなのに気にもとめず、ぼうと湯がカップを満たすのを見ていた。

 右目と左目で焦点が合っていない。文字どころか、もうまともにものの形すらも捕らえられないというのに、仕事などできるはずがない。あらゆるものの輪郭がぼやけている。

 男が長いため息をつくと、暗闇の中で息が白く光った。夜間はビルの空調設備が自動停止するため、暖房は足元の電気ストーブしかなかった。非常灯の光が入り口から男のいる給湯器の前までかろうじて届いていた。遠すぎる光は虚しく、窓の外の光はさらに遠く寂しげに感じられた。土曜日の夜に光るオフィス外の電灯は、皮肉にも穏やかな健全さで、男に自分がまだ生きていることを、生きなければならないことを諭すかのようだった。


 カップを持ってデスクへ戻った。コーヒーを僅かに口にしてから、くそがという文字が並ぶウィンドウを切り替え、資料の修正を始めた。

「悲劇の主人公気取りかよ……」

 男の独り言を聞く人はおらず、残響もなく消えた。

 上司から指示された訂正は、訂正が必要だからされた指示ではなく、単なる当てつけに過ぎないことは男もわかっていた。適当にやっつけで終えてしまえばよかった。数値の微修正は必要だとしても、他の部分はどうせ細かく見てはいないのだ。そうとは知りながらも、男は決して手を緩めることができなかった。

 ——上司のためではない。完全な、完璧な仕事をこなしたいだけだ。

 おおむね修正の終わったスライドを一枚いちまい確認していく。文字が見えない。図表やグラフの配置のみを大雑把に捉えながら、よりよいものに仕上がる可能性を模索する。誰が見ても一目で理解に直結するような完成度を常に求めている。上司に見せたのだって、そこで完成のつもりはなかった。途中経過の報告を兼ね、簡単なフィードバックをもらえば十分だった。だが、男の作ったスライドは徹底的に貶められたのだ。

 くそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそが。

 ディスプレイを切り替え、また新しい「くそが」を継ぎ足した。心の内奥に負の感情が一つ生まれるのに合わせ、その文字列を繋いだ。そうして負の感情がディスプレイを満たすことに不思議と喜びを見出した。怒りが、憎しみが、苛立ちが、電子の海を泳いで空想と現実の境界面のようなディスプレイに形を生み出す。なにもかもがくだらなかった。

 窓の外を見た。銀色の月なんて見たことない、と男は思った。月はいつも黄色か、あるいはオレンジ色だった。夕暮れ時の燃える西のそらの焦燥を映し出す色だ。夜が近づいている時の寂しい色。

 実際はビルの隙間から真夜中の欠けた月が、うっすらと東の空で淡い光を放っているだけだった。


「君の鎖のはずしかたを教えてあげようか」

 窓清掃用のゴンドラの動きに似たゆるやかな速度で、窓枠上部から逆さになって降下してきた女の言葉は、不器用な薬指みたいなぎこちない所作で男の心に触れた。昨日すれ違った人の全てに心がなくロボットのように見えたのに、不自然でしかない女の方に、不思議と真の温もりを感じた。女だけが、男にとっては生きている。その女に近づくには、重力と無関係に生きるしかない。ふと、そんな考えが男の脳裏をよぎった。

「君のような人に会うたびに、救えなかったいくつもの命を思い出すんだよ」

 ほのかな温もりの残る音の響きが窓越しに男に届いた。懐かしい、しんと深い雪に春雨が染み渡るかのように、耳の奥に潜り込んできた。女は逆さのまま開閉できないはずの大きなガラスのカーテンウォールをすり抜け、オフィスの床に手をついた。

 女が指先でトンと床を叩くと、男は肉体が軽くなるのを感じた。解放された。ふわっと身体が浮くのと同時に、視界を一面の虞美人草が埋めた。女の姿は見えなくなった。女がいたこともすぐに忘れた。

 群青色の空が消え、黒が空を埋めた。黄色から赤、赤から青へとグラデーションを成す虞美人草と同じ高さを滑るように飛び、鮮やかな色だけすくいとるように花を摘んだ。

 男はさらに速い速度で飛んだ。摘んだ花を空に撒き散らした。赤。黄色。橙。薄紫。赤紫。朱華。唐紅。紅鶸。色の重なり夜の藍へと配して、男は自らを鮮やかに彩る。

 そうして、末期の眼に映る世界は氷のように澄み、どこまでも美しかった。

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