星霜
山の冬は早い。
国道なのに待避所のない場所では、車がすれ違うことすらできないが、それでも大きな問題はない。
女はブレーキを引き、減速した。ひらひらと舞う葉が太陽の光を受けて、ひびわれたアスファルトに陰を落とした。不規則に葉は落ちる。落ちるというより、蝶が花にとまるかのように、ゆるやかにおり立った。
サドルから腰を下ろし、地面に足を着いた。空が近いのがわかる。風は澄み、肌に突き刺さるように乾いて冷たいのに、どうしてか心地よい。山間の小さな町で生まれ育った女にとって、馴染みのある空気なのだ。
まだ一台の車も、バイクも見ていない。女は山の中で一人きり。それでも不思議とたくさんの気配が感じられる。水の流れる音、落ち葉を踏む音、風、葉擦れの音、土のにおいや木のにおい、冷たい風、湿った風。静かで、孤独で、それなのに寂しくないのは、ここが山だからだ、と女は思う。
峠道に挑戦しようと思ったのは、自転車を趣味にしてから十年の節目になるからだった。
乗り始めたのは、健康のために良いから、というなにげないものだった。次第に距離は伸び、十キロ、二十キロ、四十キロと、特に苦を感じなくなっていった。
「だからと言って、あの道は車でもしんどいぞ」
「でも、人も車もほとんど通らないんだもの。とっても気持ちが良さそうじゃない」
女の夫はそうは言いながらも、峠の入り口まで女を送り、反対側で車で待機しているはずだった。
出会ったのも結婚したのも、自転車を始める前だった。若い頃には知らなかったパートナーの誠実さや優しさを数年越しに知った。自転車を始めて女は変わったし、夫も変わったのかもしれない。少し離れたが、それがちょうど良い距離なのだと、少しだけすれ違い合いながらも、最後にはふたりとも理解した。近すぎず離れすぎず、そんな当たり前のことができるようになったのも、出会ってから十年くらい時間が必要だったわけだ。
峠をのぼり切った。港の灯台のような形をした、いかにも見窄らしい、小さな展望台があった。
女は自転車を脇にとめ、階段を上がった。空にさらに近づく。太陽が低く、南側の山並みは眩しくて見ていられない。他の方角はどこを見ても山だ。山間に育った女にとっては、案外見慣れない光景だ。山に囲まれて生きる者にとって、稜線は高く視界を遮り、太陽の光を奪うものでしかなかった。それが、ほんの十数キロ自転車で走っただけで、これだけ低くなってしまうのだった。
女は胸いっぱいに清らかな空気を吸い込んだ。心地よい。山の空気はうまい、森の空気はうまい、という都会的な発想の意味を、漠然とながら理解していたものの、今ほどそれを強く実感したことはない。都会で生きるからこそ感じる喜びなのではなく、どこで生きていても、生命の源である食と同様、空気もまた胸を満たす瞬間の喜びがあるのだった。
生きている。血が心臓から手足の末端まで巡るのがわかる。からだが熱い。思考が巡る。
幼少期に亡くした祖母は毎朝、仏前に向かって手を合わせていた。それから縁側に立つと、今度は山に手を合わせていた。少女だった女には、それが不思議だった。会ったことのない祖父は、仏間にいるのか、山にいるのか、どっちなのだろうかと思った。
「どっちにもいるし、どっちにもおらんかもなあ」
と、祖母は呑気に笑った。
マウンテンバイクならまだしも、ロードバイクで荒れたアスファルトの下り坂をおりるのは、あまりに危険が多い。常にブレーキを引きながら、のぼるよりもむしろ遅いくらいの速度で、ゆったりと峠を走った。
のぼりよりも木々が豊かに生い茂っている。空気もいくらか湿り気を帯び、肌に刺さるような鋭さは削がれていた。
土の香りだ。葉の静かに朽ちるにおいがする。それは山というより、森を感じさせる。鳥の声が空に高くのぼるのに、女の視線はその正体をとらえられない。側面の崖から張り出した梢がゆみなりに曲がり、片持ち梁の庇のように突き出しては、暗い道にかすかな木漏れ日を垂らしている。日差しは弱く、肌寒い。
山の南側にいるか、北側にいるかだけで、まったく違う土地に来たかのような感覚だった。
女は五年の節目に行った夏の北海道を思い出した。
峠を貫くトンネルを抜けた瞬間、さっと空気が冷たくなったことがあった。山を越えるということは、まったく違う領域に足を踏み入れることなのだと知り、当時は胸を踊らせた。だが今では、胸をぐっと見えない手でわしづかみにされるような、重みを味わう。嫌な気持ちはしない。
数百年、あるいは数千年。多くの人々が自らの足で歩き、通った場所が、こうして今も道として残っている。その道が、こっちと、あっちとを繋いでいる。そこに畏れを感じるのは当たり前のことで、なんとなくそれが嬉しかったのだ。
会ったことのない祖父も、長いあいだ会っていない祖母も、きっとそっちにいる。遠いけど近い場所が、どこかにあると確信できるのだ。今なら少しだけ、祖母の言葉の意味が理解できた。
「お疲れ様」
峠の出口で、夫が待っていた。タオルとダウン、それに熱いお茶。のぼる時は熱かった体も、くだりで冷えた。夫はそれをわかっているのか、自然にタオルを手渡し、女の肩にダウンを掛けた。
「どうだった?」
夫の声には、女にしか聞き取れないような、微かな震えがある。懐かしく思う。今朝会ったばかりなのに、既に今朝は峠の向こう側にあった。
「うん。すごく良かったよ」
——この声を聞くために。
「そっか。なら良かった」
「うん。ありがとう」
女は熱いお茶を口にし、ようやく身体が温まるのを感じた。というより、とても冷えていたことに気がついた。もう一度、夫のいれたお茶を、ゆっくりと飲み干した。
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