体温
「数万年前に死んだいつかの私が、私に知られもせずにただそこにあって消えてしまったという思い出が、ようやく今になって私に語りかけてくるような、そんな感覚だと思うの」
「君は時々、よくわからないことを言う」
列車が目の前を矢のような速度で通り過ぎた。一瞬、日が遮られて暗くなり、またすぐに戻った。寒い。寒くない。
秋、というより、秋を飛ばしてすぐに夏から冬になる土地で、電車が通るたびに巻き起こす冷たい風にも、ふたりはさほど動じない。
ひらひらと舞うスカートを、少女たちはおざなりに手で押さえるものの、どうせ誰も見ていないことを知っていた。
そもそも見られたところで減るものではない、見るとしたってどうせ近所の爺さんたちだ。子供のころに何度裸を見られたかも知れないような人々だ。パンツの一枚や二枚くらい見せてやっても構わないし、あちらとて、特にそこに感じるものもないだろう。ふたりの少女は、瑣末なことを気にかけない性質だった。
「馬が流されて来たってのが土地の名の由来だって聞いたんだよ。ずっと前に。ずっとずうっと前に、ここで馬が死んだ。あるいは、死んだ馬が流れて来たのかもしれない。それが名前になって残っていることで、いくらかその死に意味があったのかなって。私たちが生きる意味って、その馬ほどもないのかもなって」
「ああ、ますますわからないことを言うね」
少女の言葉の意味を問うのに必要な思考速度をもう一方の少女は備えていなかった。それでもふたりが特別な関係なのは、幼少期から時を共に過ごして来たからだろう。
プオン、と電車が警笛を鳴らした。ふたりが待つことを知っている運転手は、こうしていつも彼女たちを認めると同時に挨拶がわりに鳴らす。それに応じるようにして、ふたりはさっと手を振る。乗ってから、特に会話をすることはない。
ふたりは向かい合って座った。
「過程の話だけどさ、もし私がそこの川を流されて死んだとするでしょう」
「うん」
「それでも私の名前を冠した地名にはならないと思うの」
「馬だって、馬の名前を冠したわけではないからね」
「でも人流って地名にもならないと思うの」
「それはそうでしょうね」
煩悶して今にも泣きだすみたいな顔で、少女は少女の顔を近くで見つめた。両手でその頬をはさみ、冷えた手が車内では心地よく、温かい頬が気持ちよく、ふたりの体温は近づいていった。
「そのことが、私は悲しいのだと思う」
「そんなの私だって悲しいよ」
秋の空に赤い風船が飛んで見えなくなるまで見ていたいような、そんな落ち着かない気持ちでふたりは、互いの瞳のなかの自分を眺めた。きっとその瞳のなかの瞳には、私がいて君がいるのだ、とふたりして思った。
「いつか死ぬって当たり前なのに、どうしてこれほど理不尽なの」
「名前が残ったって、やっぱり私たちが死ぬことに変わりないし、忘れられることに変わりないと思うよ」
「でも、今私がその馬たちや、馬と過ごした人々のことを思ったようには、きっといつか誰かが思ってくれるでしょ。名前さえ残されていれば」
「そういうもの?」
「そう、そういうもの」
車窓から見える赤や橙、黄に染まった山が、右から左へと速度を増して置き去りにされる。パッと視界が開けると、遠くの山並みが見えた。既にその頂には白い雪を冠し、さらにその上に澄んだ青空が広がっている。三年間、ふたりが毎日のように見た景色のはずなのに、やはり今日も美しかった。
「それでも、私はそれほど悪くないと思っているけど」
「そういうもの?」
「うん、そういうもの」
太陽の光が車内の埃をちらちらと光らせた。ストーブが時々、カンと高い声で鳴いた。たった一両の車両だが、他に乗客はいない。ふたりの熱と、灯油の燃えるストーブの熱だけが、車内を温める。
向かい合っていた少女が、少女の隣に座った。かぐわしい夏の花のような甘さを互いに感じた。渓谷のように深く沈み込んだ川から、馬のいななきが聞こえる気がしたが、電車がカーブに差し掛かって、ただ軋みを上げただけだった。
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