叫び

 ごつん、と重たい刃を振り下ろす度に、はふん、はふん、と馬のいななきに似た高い声があたりに響いた。

 乾燥させて煎ずれば蛇の毒すら中和する妙薬になるとされ、また、井戸に浸せば汚染された水を清めるのにも用いることが可能だといわれる。黒死病の蔓延するみやこへと一刻も早く獣の角を届けることが、男が王から託された仕事だった。

 ごつん、と再び重たい刃が振り下ろされると、埃のような白い粉が、斧の切っ先から微かに立った。

 一撃ではびくともしないほど硬い。村のきこりは熟練すると五、六回も斧を振りかざせば木を倒せるというが、獣の角となると、どうやら一筋縄ではいかないらしい。

 鋸の刃はすぐに欠けて使い物にはならなかった。都随一の鍛冶屋に作らせた一級品の鋸すら歯が立たないとなれば、少しずつ削るように斧を振り下ろしては、いずれ落ちるのを待つしかなかった。

 とはいえ、大男が三人がかりで交代しながら、既に半日も同じことを繰り返しているのに、その溝はまだ半分にも至っていない。人々の表情には焦りとともに、疲れが滲み始めていた。


 男は、目の前の藁の上に横たえられた、白く美しいからだを見下ろした。

 馬によく似た体躯は、馬よりひとまわり小柄で、表面を覆う毛並みは真に白く透明で、艶やかに澄んでいた。日の光を吸ったかの如く夜闇に光るのは、銀色の月と共鳴しているからだという言い伝えだが、新月の日にも深く銀色に輝くのだと村のものは言った。

 無惨にも押さえつけられた頭の、額よりわずかに頭頂に近い位置から、渦を巻くように螺旋状に筋の刻まれた、長い角が伸びていた。先端は鋭く研がれているため、矛のように滑らかに輝き、獣をこうして捕らえるまでに、三人の男がその鋭い輝きの犠牲となった。

 矢を射られた脚の傷からは血が滲み、まるで赤い靴下を履いたかのように染まっていた。殺すことはならない。生け捕りにしなければ、角の効力は死と中和し、失われてしまう。そのために三人もの男が犠牲になったのだ。矢で脚を射ることができなければ、もっと犠牲は大きかっただろう。

 ——だが、黒死病に比べれば。

 と、男は思う。

 獣の角は血を弾き、雨に濡れ、すぐに輝きを取り戻した。血のけがれすらも刹那に清められる。獣の角の浄化作用。それが今、唯一の希望であった。


 獣の傍らには三人の少女が寄り添い、順番で溢れ出す汗を拭っている。三人が三人とも甲斐甲斐しくはたらき、獣のためには労を惜しまぬ様子だった。男には、少女たちがどこか熱に浮かされているかのように見えた。一方、獣は少女たちが寄り添うことで、いくらか気を鎮めていられるようだった。

 処女三人を用意するように、との男の要請に応じ、村の長が連れてきたのが彼女たちだった。

 そのひとりは膝の上に獣の頭を乗せ、斧が打ち込まれる度に響く衝撃に、ひたすら耐えていた。ごつん、ごつん、と轟音を響かせる刃が目と鼻の先をかすめているというのに、微動だにもせず、獣の艶やかなたてがみをやさしく撫でた。

 他のひとりは全身から溢れ出す汗を桶の水で洗い流し、拭ってやり、最後のひとりは獣の口元へと水を差し出し、飲ませてやっていた。

 彼女たちは村の長に命じられた通りに仕事をしているだけではあったが、苦痛に歪む顔からは、獣に対する明らかな同情がうかがえた。

「村では、このような獣は珍しくないのか」

 男は一番近くにいる、脚を洗い流していた少女に尋ねた。

 少女はゆっくりと桶を置くと、力強い瞳で、にらむように男を見た。

 洗い流された水に、下に敷かれた藁がところどころ赤くなった。

 血はまだ流れている。角を失った獣はもう、獣としては生きられない。殺してしまっても良かったが、村の者がそれだけはと断固として反対した。村の協力を得なければ、角だって手に入れられない。現にこうして、三人の娘の力を借りているし、斧を手にする大男のうちの一人も、村の者だった。

「……森の深くに、多く棲んでおります。私たちが彼らになにもしないかぎり、彼らも私たちに危害を加えることはありません。とても気の優しい獣なのです」

「そうか」

 とだけいうと、男はその場を離れた。


 純潔な乙女の抱擁だけが、獰猛な獣の気性を鎮めることができる。そう信じられていた通り、獣は少女たちに触れられることで大人しくなった。

 眠り薬などの麻酔薬はどれも角の効力によって薄められてしまうため、効果があまりない。それに加え、殺してしまえば、まずはじめに角の浄化作用から失われていく。死の経過を遅らせるかのように、肉体の腐敗の進行と角の効力とが中和し合う。その分だけ、肉体の腐敗は遅い。そうして次第に効力が失われていき、なんとか角を切り落としたころには、もうすでに薬として使いようがない、という始末だ。

 ——だからこそ。

 男には少女たちが必要だった。

 三人の少女は獣の隣で眠り、食事をし、用を足す以外はそこで過ごした。横たえたままの獣に水を飲ませ、草を食ませた。

 脚の傷は一日で塞がり、角は絶えず斧で打たなければ、すぐにでもそのざらざらとした乳白色の表面を蘇らせてしまう。獣も人も少女たちも、休む暇などなかった。


 そうして三日が経った。

 大男の最後の一振りで、瑠璃の砕けるような甲高い悲鳴が響いた。少女から漏れた悲鳴か、あるいは獣の嗚咽か、男には区別がつかなかった。三日三晩、身を寄せ合い、過ごしてきた三人の少女と獣は、共にその角を失ったのだ。なぜか男は、そう思った。

「……すまなかった」

 男は角をおもむろに拾い上げると、獣の瞳をじっと見据えた。

「万を超える人々が都で吉報を待っている。今の我らには、これだけが希望なのだ」

 都合のいい言い訳だと知りながらも、そう言うしかなかった。

 ひとりの少女が愛おしそうに失われた角の切断面を撫でながら、つと涙を流した。つられるように後のふたりも、寄り添うその白く美しい獣の毛並みを、涙で濡らした。最初のひとりが切り口から漏れ出す金色の獣の体液に触れると、その手からぽわんと柔らかな光を発した。

 少女は涙を袖で振り払うと、にわかに立ち上がった。光る手をそっと胸に当てながら、かたわらに屈み込む男を見下ろした。

「私たちには、そんなこと関係ありません」

 勢いの割には、力ない声だった。少女は少女たちで、事情は理解していた。

「ああ、わかっている。ただ、悪かった」

 男は約束していた金貨の袋を三つ、今朝あらためたばかりの乾いた藁の上に、ぼんっ、ぼんっ、ぼんっと置いた。男にも、今ではこれがどれほど無意味な金か、わかっていた。獣の角は、もう二度と元には戻らない。かえって侮辱に感じられるかもしれないが、村の者が総出で一生かけても稼げぬほどの金貨だ。いずれ役に立つ。

「角がいかに大切かは承知しているつもりだ」

 乱暴ではあるが、万を超える命のためともなれば、他に仕方がなかった。

 寂れた田舎の小さな村落の、裏手にある森に棲むという獰猛な獣たち。かつて村で過ごした吟遊詩人は彼らを、『この世で最も美しい、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい動物』と評したという。その獣の、たった一頭の角を犠牲にするだけで、万を超える命が救えるかもしれないというならば、誰がためらうものか。

 ——少なくとも私は。

「……角がなくとも、ユニコーンがその名を負うことができるとでもお思いですか。私たち人間には、角はありません。あらかじめ欠落しているのです。だからこそ、互いに名を与え合う必要があるのです。その欠落を埋めるために、完全な獣の、その美しさを奪うことが、本当に正しいとお思いですか」

「わからない。だが、こうする以外に私は手段を知らないのだ……」

「愚かなお人です」

 と少女は、短い、そして鋭い言葉で、男を断罪した。


 男がみやこに戻ると、死者はすでに人口の三分の一を超えていた。

「残念ですが、奥様はもう……」

 角を王に献上し、家に辿り着いた時には既に、家の者の数は一桁に減っていた。家族のうち、生きているのは第三子である娘と、男の母だけだったが、その母ももう長くはないという話だった。十数人いたはずの使用人も、今では三人となっていた。

 男は、感染の中心地に近いことを、教会の調べた感染と死者と死亡率の図表で勘付いてはいた。だが、帰った頃にこんなことになっているとは、思いもよらなかった。感染速度と死へ至るまでの速度が、男の予想を遥かに上回っていたのだ。

 唐突に吐き気を催した。吐き気。黒死病の症状なのか、あるいは、自らが省みずに犠牲にした命の重みが胸を圧するせいか、男には区別がつかなかった。それでも角を持ち帰ることで都の多くの民が救えるのならばと、すぐにでも王が角をもって対処することを願った。願うしかできなかった。

 家の中はがらんとしてた。家具の配置が変わったわけでもなく、油のしみや壁の汚れなど、生活の痕跡があらゆるところに残されているのに、男はそこに生活が感じられない。

 二人の息子に妻、そして去年生まれたばかりの次女。男の溺愛していた赤ん坊がもう、ここにはいない。欠けている。

 家のあるじであるにもかかわらず、生き残った使用人を四人もかかえて生きていくことに、いったいなんの意味があるのだろうか。男は二階にあがって荷を整理してから、身軽な服装で一階へとおりた。

「亡骸はどうした?」

「旦那様、なにをご冗談を」

 黒い痣に覆われその遺体を安置しておくなど、たとえ名家の者といえども、許されるわけがない。腐敗によって感染が広がる恐れがあるだけでなく、その間にも次々と働き手が失われ、墓掘りすら不足する事態だった。となれば、一度掘られた穴に数体、適当に入れてしまうのが手っ取り早い。男が都を発った頃とは、もはや状況がまるで違っていたのだった。

「……それはそうだな。悪かった」

 男はフッと笑いを漏らした。それを見た使用人の老女は怪訝な表情を浮かべたものの、妙に納得した顔でうんと頷くと、礼をしてその場を後にした。


「遅きに失したのだ」

 王の言葉が信じられなかった。都の三分の一以上もの人が犠牲になったものの、病の蔓延はようやく収束した。それが獣の角の効力でなく、なんの力だというのか。不服だった。獣を捕らえる時に失った部下の命も、獣の角も、少女たちの献身すらも、無駄だったとでも言うのか。

 男は胸の内に瞋恚の炎が熱く燃え上がるのを感じた。こんな仕打ちが、許されるわけがない。

「何か、言い残したことはあるか」

 男が反論しようと顔を上げようとした瞬間、王が再び言葉を口にした。その一言は、死刑宣告に等しかった。男に最後に残された命すらも、今、王の理不尽な裁定のもとで失われようとしていた。病の蔓延で、何もかもが変わった。男だけではない。多くの人々が、命を、愛する人を、日常を、生きる糧を失った。その病が収束した今でもなお、あらがいがたい理不尽な権力が男をその重みで押しつぶそうとしている。王の命じた通り、獣の角を持ち帰り、病を収束させたというのに。

「獣の角を持ち帰った私の功績は、認めてはくださらないのですか」

 男はついに、顔を上げた。王のくしゃくしゃに歪んだ顔が目に映じた。手には乳白色の鋭い角が握られ、高窓からほとんど垂直に差す日の光に、照り輝いていた。それは、男が持ち帰った時のそれと、まったく同じ形を保っていた。

「ユニコーンの角の伝説など、賢王と名高い朕がまことにするとでも思ったのか、たわけが。朕はそなたを試したまでだ」

「ならば、それはユニコーンの角ではないと?」

「伝説上の獣でしかない。そんなものは幻想なのだ。この世界に、そんな獣がいるわけないではないか」

 男は言葉を失い、項垂うなだれ、泣いた。その最期の慟哭はまるで、馬のいななきのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る