迷子

 店内の喧騒を密かに裂くような高い響きが、どこからか聞こえてきた。女は首を振って声の源を探るものの、なかなか見つからなかった。人が多い。所狭しと並ぶ商品の棚の隙間に、声は隠れて見つけられない。近づいてはいるはずなのに、あと一歩まで来たと思えば、まるで違う方向から声が聞こえてくる。気配が多すぎるせいか、他の子供や親子連れと区別がつかないのだ。

 ——おかしい。逃げられてるのかな?

 商品のケーブルがからまりもせずに棚に並んでいた。家の配線を思うと憂鬱になる。女は狭い通路をするりと抜けた。先にはレジへと続く長い列があった。当然こんな場所を通れば、誰かが気がついて声を掛けるものだろうと思う。また声が聞こえなくなった。女は立ち止まり、考える。

 ——いや、違う。

 人が多すぎるのだ。誰かが声を掛けるはず、と誰もが思っている限り、誰も声を掛けることはない。誰も声を掛けないとなれば誰かが声を掛けなければならないが、誰かが声を掛けなければならないならば誰かが声を掛けるだろうと、また誰かは思うはずだ。永遠の堂々巡りのように思える論理には、案外単純な帰結が用意されている。責任逃れの思考回路は自己弁護のために完璧な言い訳を拵える。共通の言い訳のもと、誰もが他者に対して無責任になる。きっと誰かが、という希望的観測に甘え、助けを求めるものには手を差し伸べず、まるでそのものがそこにいないかのようにやり過ごしてしまう。都会的な冷淡さは、都会であるがゆえに生じるのではなく、単に人の数の問題なのだ。寂れた田舎でも祭りで賑わえば同じことが生じる。やはり、人が多すぎるのだ。

 長い列の手前で左に折れ、美容関連の家電の並ぶ細い通路に入った。美しさを保つ、美しさを磨く。美をお金で買うことへの誘惑に満ちた、まったく無縁であるはずの小路で少女を見つけた。四、五歳だろうか、上に赤いトレーナーを着、ピンクのスカートを穿いている。伸びた髪を後頭部の高い位置でお団子にして、キュッと髪をうしろでまとめあげているせいか、こめかみに向かってスッと切れるような長い目をしている。それがどこか子供っぽい可愛らしさのなかに、人工的に作られたかのような、無機質な冷たさを宿しているように感じられた。だが、その瞳はたっぷりと涙をたたえ、頬と鼻の下がぐじゅぐじゅに濡れそぼっている。繰り返し嗚咽し、泣いた形跡がまざまざと残されていた。

 少女の視線に、女は少し気圧された。少女の方でも、女のことに気が付いたらしく、キッと鋭い視線で睨み返した。打って変わって、熱を孕んだ人間的な感情を帯びていた。

 ——誰が私を孤独にしたのだ。

 少女の瞳には、瞬間感じているはずの心細さや寄る辺なさ以上に、世界に対する憎しみの念が溢れている。自分を見失った保護者に対する怒り、泣きながら歩くのに誰も自分を見出してくれないことへの憤り、憎み、恨み、世界に対して反抗するような瞳。どうして私だけが、こうも孤独なのだ。

 女は、少女に近づいた。少女は逃げようとした。女は回り込み、視線を合わせるように屈み、尋ねた。

「どうしたの。ママは? パパは?」

「……う、うえっぐ」

 再び少女は逃げようとした。その手を女が掴んだ。なにも言えないまま、少女は途端に泣きやみ、女をじっと見つめた。どうして掴むの、どうして自由にはしてくれないの、どうして迷子の私を見つけたの。どうしてお母さんじゃないの。少女はなにも言葉を口にしていないのに、女の頭の中で数多の声が響き渡る。どうして、どうして、どうして。世界はどうして私にだけ残酷なの。

「……お母さんと一緒に来たの?」

 うん、と少女が頷いた。ようやく少女は、女が少女を助けようとしていることを理解したらしく、一言、二言、言葉を口にした。名前、年齢。誰と一緒に来たのか。言葉が漏れるに連れて、少女は次第に孤独ではなくなった。

「じゃあ、お姉さんが一緒にお母さんを探してあげるね」

 うん、と少女がもう一度頷いた。女は少女の手を引き、レジの横を素通りして、真っ直ぐに歩いて行った。週末の家族連れで混み合う店内では、二人は親子にしか見えなかった。少女は女を時々見上げた。その度に、女は屈託のない微笑を返した。少女は安心し切っていた。

 自動ドアが開くと、女の火照った頬に秋の冷たい風が吹き付けた。肌に心地よい。もう迷子ではない。女は道を誤りながらも、迷いは微塵もなくなったかのように、頬に朗らかな笑みを浮かべていた。

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