続き

 目覚ましの音に重たい瞼を無理やり上げたが、身体の方は動こうとはしない。どうやらまだ、夢を見ているらしい。どこの国だろう。中国。韓国。いや、違う。いろいろな言葉の看板が並ぶ中、アラビア語やロシア語らしき言葉、さらにはヒンディー語だろうか、無数の蛇が複雑に絡み合ったようなよくわからない言葉の看板もある。行ったことのない場所だ。

 男は夢の中でだけは動ける。統一感のない雑多な横丁を抜けると、古びた倉庫のような建物がある。どうやら男は、そこで暮らしている。男は階段をのぼった。だだっぴろい空間に、いくつか家具らしきものが配されている。カビ臭いベッド、ところどころ隙間から日が漏れるカーテン、ブーンと低い唸り声をあげる業務用冷蔵庫、切れかけて点滅する蛍光灯と、そこはただ不完全さで空白を埋めたかのような奇妙な部屋だった。

 再び一階へ下りると、入ったのは反対側の裏の扉から外へ出た。

 大きな池があった。表面が藻で覆われたうえ凍っているため、上を歩ける。不自然だった。氷の表面を藻が覆うなんてことはありえないだろうが、特に気にかけるでもなく、男は池の上に立った。そばを子供たちが駆け回っていた。簡単には割れない。小さな椅子を池の上に置き、ぽっかり丸くあいた穴から釣り糸を垂らす女がいた。

「なにか、釣れるのですか」

「どうでしょう」

「わからないのに、釣りをしているのですか」

「わからないから釣りをしているのですよ。釣る前からなにか釣れるとわかっているのならば、釣りをする意味など少しもないでしょう」

「そうですね」

 女の言うことはおかしいとは知りながらも、なんとなくその言葉に納得させられた。そもそも、正しいか否かは男にはどうでもいいのだ。ただ、言葉を発してみたかっただけだ。

「のぞいてみてもいいですか」

「どうぞ」

 池の水は黒かった。生き物が棲んでいるとは思えなかったが、考えてみれば男の生活する部屋だって同じように、人間の住処としては余りにぞんざいなつくりをしていた。はて、と男は考える。このままこの夢のなかにとどまり続けてもいいものだろうか、と。


 もう一度、重たい瞼を持ち上げた。視界に微かに映った時計は、まだ仕事に間に合う時間を示していた。枕元のスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。欠勤の連絡が数件並んでいた。男と同じように、同僚たちも夢に絡め取られて起き上がれずにいるのだろう、そんな彼らの仲間入りをするのか、あと三十分ほどで決めなければ間に合わなくなる。男は瞼を閉じた。


 蝶になった。胡蝶の夢というやつだろう。どうして現実と夢に区別がなければならないのだ。夢の方が、どうして現実だと言えないのだろうか。違いはなんだろうか。そんなことを思ってみた結果がこの夢なのだと、男は自分の夢を見ているそばから分析してみた。

 ふわ、ふわ、と風に翅が揺れ、軽すぎる身体は飛んでいるというより飛ばされているような感覚だった。四枚の翅は甘く香る。甘い香りの中には微かに、さなぎであった時の古い記憶が息をしている。それはかつて幼虫でもあった。そこに連続性はあるのだろうか。細胞がアポトーシスで崩れて新しい細胞として置き換わる過程で、個体の連続性はどのように保たれるというのだろうか。

 背高泡立草と薄の鬩ぎ合う河原をたゆたうようにしばらく飛び、抜けた先にあった学校の花壇の、青い花にとまった。青は空の色を吸ってますます青く冴え、蜜の甘さは減った。空は甘くはないのだという。からっぽで、うつろで、むなしくて、そこには甘味はないのだという。蝶になって飛ぶのに飽きた男は、夢を終わることにした。


 窓の外はすでに明るい。カーテンからのぞき見える空は、さっき見た花の青と同じくらいに冴えた群青色だった。仕事にはまだ間に合う。メッセージアプリを開いた。さっきより二、三、欠勤の連絡が増えた。昨日は冷えた。体調を崩した人が多いのだろうと思った。男はその一つをコピーして、名前を変え、送信した。まだ間に合う。だが、冴えた群青色を見たその瞬間、海に行きたくなったのだ。

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