青色の罪
「日本語には雨の表現が豊かだという言説があるがそれは誤りだ」
と少年は顎を斜めに上げ、脂下がり気味に言った。
少女と少年にはさほど身長差がないため、実際にはほとんど視線は水平だ。得意げな少年は、少女の目には滑稽に映った。
少女には、少年の求めているものを正確に理解できた。なぜなら、少年は少女に恋をし、少女は少年に恋をしてはいなかったからだ。
「というと、時雨や五月雨、篠突く雨や小糠雨、宿雨やら驟雨なんやら、そういう意味の単語は他の言語にも見られるってこと?」
秋の夕暮れ時の教室には、廊下から橙色の光が染み出し、高校生であるはずのふたりにすら、不思議と懐かしさを感じさせた。いつか見たことのある、夕日の差す教室の風景だ。
ふたりきりだという事実だけでどこか落ち着かないのに、その郷愁が一層と少年を不安にさせた。
電気が消えている。消して、と言ったのは少女だった。明るいと先生が来るから、と。
光が乏しい。たったそれだけのことで少年の不安と期待がいやまし、綯い交ぜとなった感情が足元からぬくぬくと教室を満たしていった。
少女がくるくると髪に指を絡ませる仕草ひとつで心が揺さぶられるのに、体温だけは一向に上がらない。
秋の夕暮れは、とても冷える。
「ううん、違うかな。合成語って言って、複数の形態素を組み合わせて作られた単語のうち、特に複合語と呼ばれるような、複数の語幹が結びついて一語になったような単語が、日本語の雨の表現には豊富なだけなんだよ。それって要するに、レトリックの範疇じゃないかな。
語と語を結べば、表現は数千倍、数万倍に増やすことだって可能になるんだから。それは本来的な語彙とは違う。それは単なる組み合わせに過ぎないし、組み合わせるだけであれば増やすことだって簡単だよ。
僕らは秋に降る金木犀を散らす雨を、たとえば
純粋に独立した語としてそれがあるかどうか、違いが生じるのはそこだよ」
「ふーん。そうなんだ」
少女は机に座り、あしをぶらぶらと揺らした。
退屈なわけではなかった。足が自然と動くのは、同時に頭が回転している証拠だ。
少女は絶えず思考している。
思考の回転速度が増す毎に、世界の速度は相対的に遅くなる。ゆったりと流れてくる必要な情報を瞬時に取捨選別し、少女にとっての最適解を導き出す。最先端の時代の感性だ。
「そうだと思う。必然から生じたり、文化の要求から起こったりする言葉って、そうして違う形で表されるから」
少女は向かいの机に腰掛けた少年をじっと見つめてから、自分の机からおり、そろそろと少年のそばへ寄った。
身動きの取れない少年を尻目に、すんなり隣に座ってみせる少女は、一枚も二枚も上手だ。
互いに経験は乏しいが、思考速度と分析力は、少女が少年を遥かに凌駕している。
青春を余すことなく味わい尽くそうとする貪欲さが、少女を突き動かしている。時間が有限であること、生が限りあるものであること、有限生のなかでなにができるのかと問い、導き出した。これが少女の思考の帰結なのだ。
少年はわずかに後退ったが、少女の体温を感じられる距離からはもはや出られなかった。
「たとえば水。英語では温かい水と冷たい水は区別しないでしょ。でも、日本語では水といえば温かくはないし、お湯が冷たいことはない。温度の違いで明確に言葉を使い分けているんだよ」
「ふーん。なるほどね」
少女の息が、少年に届く距離にあった。
語の必然性、と少年が言うのはおそらく言語相対論のような話なのだろうと少女は解したが、少女からすれば、チョムスキーの生成文法の方がよほど魅力的に映った。
私とあなたは違う、あなたと彼は違う、彼と彼女は違う、君と僕は違う。あらゆる差異を集めることでしか私たちが私たちを定義できないというソシュール的発想では、私たちは私たちの意味に永遠に到達できないではないか、と少女は思った。
なんとなく寂しくなって、少女はさらに少年へと身を寄せた。
少年は少女の思いを知ってか知らずか、今度は後ずさることはなかった。
「じゃあ、雹とか霙とか、雪、そういうのは本来の語彙の豊富さとして数えられるってこと?」
「その通り。鋭いね」
——だって私、君より言葉が好きだから。
少女は微笑み、少年の手に自分の手を重ねた。震える手から、彼の鼓動が感じられる気がしたが、気のせいだろうと思った。
語が私たちの世界を規定する、なんて信じてたまるか。私たちの性質が、人間の本来的、先天的な言語能力が言語のあり方を規定するのであって、その逆ではありえない。だから、公理から始めよう、というチョムスキーを愛する。公理から発した系の中でだけは、私たちは自由だ。と少女は思う。思いながらも、言語系という限定された世界でしか所詮は生きられない不自由と孤独に、一瞬だけ絶望しそうになる。
それでも少女は言葉を紡ぐ。言葉を紡ぐことでしか、少女の孤独を癒す手段はないのだから。
「私は別に、君のことが好きというわけではないけれど、こうして放課後にふたりで話すというのも、悪くはないと思っているの。そういう関係性も悪くはないかなって」
「そう。そっか」
日が沈んだ。教室から光が消えた。
少年少女の混沌からは夜闇が生じ、微醺を帯びた街の気配が教室を侵す前に、ふたりはその場を後にした。まだ見ぬ幻夢に取り憑かれた、デカダンスに傾倒した少年少女は、未だに意味を求めて足掻いている。言語に酔う、言語に溺れる、という退廃の果てにある解は、常に新しい問いの始まりでしかないと気づきながらも、上手に気づかないふりをしながら。
昇降口でお別れして、もう二度と会うことがないかもしれないふたりは、「さよなら」という言葉で今日を閉じた。
ふたりの明日への確信は、夜になってもまだないまま、冷たい秋の夜気が校舎を覆い尽くした。
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