徒花

 帰り道の途中、女は立ち止まって桜の木の梢を見上げた。ちょうど団地の裏手にある小さな公園には、春になると桜が花をつけるというが、まだ一度も見たことがなかった。

「春になったら見せてやりたいよ」

「そうね。でも、毎年同じこと言っているじゃない」

「そうだったか」

「そうよ」

 日が暮れるまで夫の実家で過ごし、泊まっていけばいいじゃないかという言葉を丁重に断って出てきた。公園の桜の木も、団地の窮屈な階段も、無理やりに区切ったような不自然な間取りも、夫のためだけに残された過去のアルバムに思えた。義理の両親が実際にアルバムを持ち出したのは数えるほどだが、空間そのものが女だけをその外に置いた。ざらざらとした壁に、少しかびくさい空気、台所にこびりついた油汚れに、ほこりのつもった食器棚。何もかもが女からは遠く、何もかもが女以外とは親しげだった。

「子供ができればきっと違うよ。僕らが、新しい記憶を作っていくんだから」

「子供がいなきゃ、そうはならないってこと?」

「そういうわけじゃないけど」

 路地から見上げた桜の葉は街灯に赤く照っていた。低く唸るような轟音が、地響きのように遠くから近づいてくる。ごごごごごごごごごおお、と鳴くのは、金属の箱におさめられたたくさんの帰宅者だろうか。微かな地面の揺れと共に光が駆け抜け、わずかに遅れてドッと強い風が吹いた。桜の木の梢が揺れ、赤い葉がちらちら散った。桜は花だけじゃなく、葉も綺麗だ。女の前を歩く男は、そんなことは少しも気に留めていない様子だった。

「たださ、やっぱり子供は欲しいと思うのさ」

「私だって欲しいよ」

 坂道をゆっくりと下った。雨は降っていないのに、側溝をちょろちょろと水が流れていた。この先に駅があり、電車に乗って三つ先には女とその夫の住む家があり、明日になれば昨日と変わらず仕事へ向かって、業務をこなして、そうしてあっという間に一週間が終わる。束の間の平穏と休息を得るためにある休日に、どうして自分だけが淡い雲に嫉妬しているのだろう。女は昔、ハルジオンが好きだった。けなげに揺れる姿になんとなく憧れた。今では暗い空に浮かぶ、今にも消えそうな淡い雲に憧れている。いつしかそれが定位置になって、消える。循環から爪弾きにされ、切り落とされた枝の断面のように、一瞬間を他人に晒して、ぽたぽたと濃い樹液を滴らせる。それが終わり。もう、伸びる必要も、実をつける必要もないのだ。それで終わり。

「なら、もうちょっと頑張ってみようと」

「そうだね」


 電車に乗った。休日の晩の電車は、平日とは趣を異にする。家族連れがずらりと並んで席を陣取っていたり、老夫婦らしき男女が少し酔って、互いに幸福そうな笑みを浮かべていたりと、なんとなく孤独を感じさせる。

 女は隣の男を見た。取るに足りないが、かといって不足もない。女とちょうど釣り合いが取れる。男にとっても、女に不足はないだろう、とも思う。それなのに、互いに何かが欠けていることに、とうに気づいていた。車内にところどころに散らばった幸福には、どうしたって手が届きそうにない。窓外の暮れた街並みを、ものすごい速さで置き去りにしていく。その灯りひとつひとつに人の生活があるのだと考えてみただけで、とたんに胸にこみあげてくるものを感じた。過去から追いかけられてくるくる回るメリーゴーラウンドに乗っているみたいに終わりも始まりもない循環をひとりで繰り返している。もし、隣に男がいたなら。と、再び隣の男の顔を見た。

「別に二人も、悪気があるわけじゃないと思うよ」

「わかってるよ」

「なら、どうして機嫌が悪いの?」

 ——どうしてって、なに?

 心に浮かんだ言葉が口に出されることはなかった。胸の中に氷を突き刺したような痛みを感じた。男が守りたいのは自分と両親で、求めているのはいつだって子供だけなのだろう。だが、男の存在の根拠は希薄だ。無限背進の深い深い虚無へと体を押し込めるためだけに子供を欲して、脱落者を踏みつけにして自らの墓穴をせっせとスコップで掘り進めている。

 ——ならば、自分は?

 電車の冷房が冷たい。どこかに解答やら正答やらがあるなどとは端から信じてなどいない女も、それが見つけられたらと期待しないわけではなかった。時々友人には、頭がおかしいなどと言われ、太陽に焼かれて翼を落とし、海に沈んで死んだ神話のなかのイカロスのようだと笑われ、まだ背に滲む血を流すために塩水を塗られるみたいに惨めで、泣きたいのに涙がでない。

「大丈夫だよ。機嫌、悪くないよ」

 と笑った。女は正気を保つために、何度でも嘘をつくのだ。

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