どこまで行っても夢も夢

 カーテンの隙間から漏れる秋の朝の日に、女は薄く目を開いた。まだ起きなくてもいい。閉めたままの窓から、ひんやりとした空気が伝わるのがわかる。布団から出たくない。隙間から空気が漏れないように、掛け布団をからだの下へと巻き込んでから、反対の熱源へと顔を向けた。温かな肉体がある。華奢な肩、細い腕、脂肪も筋肉も多くはない、女のよく知る肉体。そこにあることを確かめるかのように、指先を相手の指先に絡めて、力をこめた。指と指の間が開かれ、骨と骨が重なる。手のひらの柔らかさとは対照的に、痛みを伴う硬さだった。指をほどくと、手の甲から肩へと這うように肌の上を指が滑っていく。自分と同じ体温の腕と、皮膚の下を走る静脈のおうとつが、生きた肉体を女に確信させる。安心してもう一度眠ろうと、唇を顔に寄せてみたものの、そこだけが空白だと気がつき、女はようやく目を覚ました。

「まだ眠っていたの? 会社、遅れるよ」

「うん」

 枕が濡れていた。隣にあったはずのぬくもりはすでにそこにはなく、すぐに手を伸ばすのをやめた。懐かしい声が耳の奥で響いた。耳たぶを優しく撫でる指先の感触を思い出した。記憶だけが過去を現実として描いてくれる。夢が記憶の見せる嘘だとしても、瞬間的に確信をもってそれがそこにあったことを感じさせてくれるのだから、不足はない。カーテンを引き、朝の光を招き入れた。薄い灰色の雲の遠くまで続く空が視界の大部分を占めた。雲の厚みの違う場所の濃淡が、そこにないはずの空の高さを生み出している。きっとあの空のしたで今日も誰かが死んだのだ。

「ねえ。会社遅れるよ」

「わかってる」

 女は振り返りたくなかった。低く響く優しい声を、微かに非難を含んだ声を、ずっと聞いていたかった。この部屋でこうして横になっていれば、失うことなど二度とないと思いたかった。それでも何故か、女は何度だって振り返ってしまう。声が聞こえた場所には、誰もいないのに。女は再び目を覚ました。

 ベッドから出ると、朝の冷気が足先から感覚を奪うせいか、上手に歩けない。

「やっと起きてきたのか。今、パン焼いてるから」

「うん。ありがとう」

「ハムとチーズもあるよ」

「ありがとう」

「ああ、あとスクランブルエッグね。お好きにどうぞ」

「ありがとう」

 洗面所で顔を洗い、タオルで拭った。タオルは少し、夜のにおいがした。そんなことを言うと、雨の日に洗濯をするからだよ、と向こうの部屋からあの声が聞こえてくる。だから女は言わない。もし声が聞こえたら、今いるここが夢だと確定してしまう気がする。ならば、遠くにその気配を感じたまま、ずっと洗面所にこもっていれば夢が終わることなどないのだ。なんて、それこそ夢物語。いつまでも顔を洗っていたらそのうち顔ごと洗い流されてしまう、と思った瞬間に顔をあげると、もうそこに自分の顔はなかった。を求めるうちに、自分がいなくなっていた。

 パッと洗面台の蛍光灯が光ったかと思えば、途端に世界が白い光に覆われた。女の視界は次第に晴れ、光は雨のように白い線を世界に幾条も垂らしては時々はじけ、春の桜吹雪のようにちらちらと輝いていた。死。女の明確な死のイメージが重なっている。喪失と現実とに折り合いをつけられないまま生きてきたつけが回ってきた。生。夢から一番遠い場所にあるそれがいつも問いかけていた。あなたは誰。あなたは誰。あの人がいない世界で、あなたは誰になれるの。声が聞こえるが、それが誰の声かももはやわからない。再び蛍光灯が光る。

「そんなに顔を洗っていると、顔が洗い流されちゃうよ」

「馬鹿ね。そんなのありえないわよ」

 女は洗面所からリビングへ出た。いつもと同じ一日がそこに待っていると知りながら、夢を破った。毎日こうして破らなければならない夢があることことこそが、今はまだ、女にとっては救いだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る