夜に蓋して

「蓋然性と可能性はよく誤解されて用いられている」

「そう?」

「うん、そう」

 秋の空は遠くまで良く見えた。冬になれば富士山が見えると聞いてはいたが、九月中旬に見られるとは思ってもみなかった。女は常に、見えるかもしれないという可能性に期待していた。

「可能性はバイナリー、二値、つまりはあるかないか。だから本来は高いとか低いとか言えるものではなくて、あるかないか、要するに存在論的なんだよ」

「ふーん。なるほど」

「それに対して蓋然性ってのは、一言で言えば確率のこと、パーセントとか何割って言えばわかりやすいかな。本来、高い低いってのは蓋然性でしか言えない。可能性はあるなし。そういうことなんだよ」

「ところでさ、蓋然性ってはじめて聞いたけど、どういう字」

「え」

 男はきょとんと女を見つめた。女は女で、窓の外をぼうと見ている。非常階段の脇の業務用エレベーターが下からあがってくる音が聞こえた。男は女の横に並んで、窓の外をのぞいてみた。昼のラブホ街は、なんとなくうらびれた気持ちにさせられる。幻想が白日のもとに照らされ、儚くも焼き尽くされてしまう。そんな気分になるのだ。

「蓋然性ってのは、蓋に、然るに、性質の性」

「叱る?」

「違う、然る、だよ。自然の然だよ」

「ああ、わかった。法然上人の然だね」

「ええ?」

 女は目を細めて、じっと富士山のてっぺんを眺めながら、自分の指先でそこに触れてみた。ただ空を切るだけだった。

「だからさ、南無阿弥陀仏だよ。浄土真宗のさあ」

「浄土真宗は親鸞じゃなかったっけか」

「どっちでもいいよ。信じるものだけが救われるってことに、宗派も宗教も神様の違いもなんも関係ないでしょ」

「大雑把な人だね」

「まあね。ほら、富士山だよ。手を合わせて」

「ああ」

 男は女に言われるままに手を合わせて、律儀に目をつむった。まぶたの裏に浮かぶのは、すぐ隣にいる女の笑顔ばかりだった。ふーっとため息をついた。休憩時間にこうしてふたりで過ごしているのに、まだ外へ誘い出したことはない。そのうちこの関係に慣れきって、もう一歩のところを二度と踏み出せなくなるのだ。今まで何度も、同じ失敗をしてきた。今回だって同じ。勇気の欠如が、男を何度でも失敗させる。必要なのは、ほんのあと一歩なのに。

「何を願ったの?」

 女が尋ねた。男は視線をそらすと、ぐっと強く奥歯を噛んだ。言葉が出てこない。苦しい。「ランチしようよ」のたった七文字で済む話なのに、一音いちおんが喉のおくでだだをこねていやいやする子供のように引っかかっている。

 ——何を恐れるのだ。

 男はわかっていた。恐れているのは失敗、そして破滅だ。

 築きあげてきたものが一瞬で崩れることに、耐えられそうにない。例えば今、目の前の光景が地震か何かで一変したら、と考えてみる。それと同じことだ。ラブホ街が崩れていくなかで、多くの人の記憶も失われていくような感覚。そんなはずはないのに、そう思える。そこにあるものが、いつかはなくなってしまうという事実に、時々耐えられなくなりそうだった。それでも男は、女の笑顔を脳裏に思い浮かべる。

「うん。なんだろう」

 女は今日はじめて、男の方を振り向いた。ずっと外ばかり見ていたのに、その目には秋の空よりも澄んだ輝きがあった。

 男は理解不能、思考停止で女を見つめ返した。蓋然性と可能性の違いに頓着していた自分のことなどもはや覚えていない。視界にはただ、自分が行為を寄せるその人だけが映っている。

「私はね、君と飲みにでも行きたいな、誘ってくれないかなって願ったのさ」

 と女は言った。

 男は目をしばたかせて、女の表情を確認した。照れ、というより、どこか恐れに似た表情を見出して、男は急に恥ずかしくなった。

 簡単なことだ。誘うのは誰だって勇気がいる、それだけのこと。断られたら、壊れたら、今までそこにあったものがなくなってしまったら。そう思うのは当然のこと。

「僕も。似たようなこと、願っていたかも」

 と男は控えめに言った。勇気、というには少し足りない半歩だった。

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