3-1=1+1

「今日、行く?」

「うーん。やめとく」

「そっか」

 少年のよく焼けた額からは、一筋の汗がつたっていた。

 電車内は汗をかくほど暑くはなかったが、その大きな体つきと、背負う荷物の大きさを見れば、想像に難くない。高校名と部名が刺繍されたバックパックは、今にもチャックが開きそうなほどに中身が詰まっていた。練習着や水筒、着替え、シューズ、ボールなども入っているのかもしれない。それなりに、重さもありそうだった。

「じゃあ一人で行くかな」

「え、まじか」

「なんだよ」

「んや、なんでも」

 もうひとりの少年は、ひとまわり小柄だった。とはいえ、筋肉質に引き締まったからだは、どこからどう見ても運動部のそれで、さらに隣にいた学生と比べれば、またひとまわり大きい。

 同じように日によく焼けた小麦色の肌は、大柄な少年に比べると涼しげで、額から汗が伝うこともない。

 秋も更けてきたというのに、二人とも半袖のシャツに、制服のズボンは膝までまくりあげていた。

 電車内の二人のいる一画だけが、不思議な熱を帯びている。周囲の空気までもが、その熱に、微かに膨張しているような浮き足だった雰囲気をかもしている。なんとも妙だった。人が多く乗っているのに、誰一人として物音ひとつ立てない。まるで、二人の会話を黙って聞いているかのようだった。

「やっぱり俺も行くわ」

 小柄な少年が言った。端正な顔立ちには似合わぬ、なんとも間の抜けた声だった。

「なんだよ。じゃあいつもと一緒じゃん」

「ああ、わりぃ」

 二人の会話は長くは続かなかった。大柄な少年が胸ポケットからスマホを取り出すと、どうやらゲームを始めた。小柄な少年もスマホを取り出すと、流れてくる数多の通知を適当に読んでいった。

 少年たちは、彼らが探しているものをそこに見出すことができないと、すでに知っているのに、何度もそうしてスマホを眺めた。二人が共に行動する理由が、失われてはいないかと。


 二人にとってというのは、どこか欠けている。だからこうして毎日のように途中の駅で降車し、駅から歩いて十分ほどの病院へと赴く。

「なんてことはない、ただの軽い腹痛だ」

 そう言ったのは少女の父親だった。よく知ったその人の言葉だからこそ、二人は信じ、軽く受け取った。

 ただの軽い腹痛で一週間以上経った時に、ようやくおかしいことに気がついた。軽い腹痛で入院、というのを疑うべきだったのだろうが、高校生の二人にとっては、少女の父親の言葉を信じてしまう方が、よっぽど容易だった。

「今日、体調どうですか」

「ああ。まあなんてことはないよ」

 病室の前で会うと、昔のいかつい姿は見る影もなく、猫背気味の中年の男がぼそりとつぶやいた。二ヶ月前までは少年たちに劣らぬほどの体躯だったのに、いつのまにか痩せ、腹だけが出ている。

 ——たった二ヶ月、人はここまで変わるのか。

 二人の脳裏を同じ考えがよぎった。

「そうですか、ならよかった」

「ああ。いつも悪いな。お前たちも練習で忙しいだろうから、そう頻繁に顔を出さなくてもいいんだぞ」

「わかっています。練習はサボってませんから」

 小柄な少年は、自らの語気が強まるのを感じた。棘のある言葉ではないが、そこにはどこか中年の男を非難するような響きがあった。

「ならいい。俺はちょっと、ロビーで休んでくるよ」

「はい。俺たちが見ているんで、ゆっくりしていてください」

 ああ、と言ったのだろうが、男の言葉は目の前の二人にすら届かなかった。

 二人はエレベーターの方へとゆっくり歩く男の背が見えなくなるまで、廊下にぼうと立っていた。


「どう、調子は」

「今日は良い方かな。昨日はひどかったけど。なんか、嫌なところ見せちゃったね」

「気にすんなよ。そんなの」

「そうだよ。俺らは平気だから」

「ありがとう……」

 少女は青白い顔を外に向け、二人から顔を隠すかのようだった。頬はこけ、目の下には紫色のくまがぼんやり浮かんでいる。目尻や頬には、十代とは思えないほど深い皺が刻まれ、長く垂れるようなまつ毛とほのかにピンクの残る唇だけが、かつての少女の美しさを思い起こさせる。

 二人も視線を外へと向けた。窓から見える病院の中庭の銀杏は、葉を緑から黄緑へと微かに変化している。もうすぐ散る。季節は巡り、物事は変化し、うつろい、世の無常を告げる。

「っていうか、もうすぐ中間試験じゃん。二人とも勉強はいいの?」

「俺は平気。スポーツ推薦で大学に入るから」

「俺は勉強してるよ」

「なあんだ、つまんない。今回のテスト、私だけ抜群に良い点取って見せようと思ってたのに」

「テスト勉強、してるのか?」

 大柄な少年の言葉に、少女は一瞬だけ、怯むような表情を見せ、言葉を失った。

 小柄な少年はぐっと固く拳を握りしめるものの、怒りのやり場はどこにもなかった。

 そこには、誰の悪意もない。不運だけが、少女からなにもかもを奪おうとしていた。この上ない理不尽が、小さな病室の一画を占めていた。

「してるよ。私だって良い大学行きたいもん。理学療法士になりたいんだ」

「まあ、お前ならなれるだろうな」

「お、俺もそう思う」

 大柄な少年の声には、いつになく力がこもっていた。

「俺、プロになるから。だからお前は優秀なトレーナーになって、で、お前は理学療法士になって、怪我した時とかにサポートしてくれて。そんなんだったら良いなって、ずっと思ってる」

「なれるよ」と少女が言った。

「ああ、なれる」と小柄な少年が言った。

 外はもう暗くなってきた。中庭の灯に照らされた銀杏は、さっきよりもずっと黄色く見えた。青が抜け、完全に黄色になったころには、その地面を埋め尽くすように散るのだろう。三人は同じことを思い、少し寂しくなった。

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