素粒子

 最後に実験室からでると、入り口で後ろを振り返った。

 二十代半ば。少年からすれば十歳近く上の年齢ではあるが、まだ若い。短く艶やかな黒髪が、余計に若く見せる。青いワンピースの上から白衣をまとうその姿は、大学生と言われても違和感はなかった。物理担当の女は今年、県内屈指の進学校を退き、少年のいる平凡な私立高校へと赴任した。国立大への進学者を多数輩出する高校で務めるのは名誉なことだし、収入面では大いに差があるはずだ。なぜうちの学校へ来たのだろう。そう疑問に思うのも当然の帰結だった。

「なにかわからないところでもあった?」

「んや、なにも。わかりやすかった」

「そう。ありがとう。あなたがわからないなんてこと、ないものね」

 少年は実験室の扉を引いた。


 高校の運動や空間の概念は、基本的にはニュートン物理学を基盤としている。少年は、ニュートン物理学における慣性や運動方程式、作用・反作用の意味するところをすんなり理解した。とはいえ、その内容にはなんとなく不満だった。もし、力を与えられた物体が空間上で規則的に運動するのならば、自分の生きていることも、いかに生きるかも、どう死ぬのかすら、あらかじめ決められていることになるのではないか。ニュートン物理学という範疇に閉じ込められている以上、運命は避けがたい必然でしかないような気がした。だから不満だ、と女にその意を表明すると、ラプラスの悪魔という言葉を教えてくれた。


"ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえる"


 そして、女は少年に言った。

「ラプラスの悪魔を打ち破りたかったら、まずはしっかりニュートン物理学を学びなさい。そして、熱力学や電磁気学を経て、量子力学を学びなさい。決定論に絶望する必要など、少しもないから」



 女はどうやら、学校で孤立しているらしかった。

 女の作った一学期の物理Ⅱの中間テストが、単調な学校生活にちょっとした波瀾を起こした。

 平均点が二十五点、赤点。

 有名進学校の教員をつとめていたため、授業の進みは速く、情報量は膨大だった。受験に間に合わせるのを前提に、というのも大きな要因だっただろう、一学期の中間までに力学を終えてしまった。理系の進学クラスとはいえ、平凡な偏差値の高校生たちのほぼ全てが、理解が追いつかなかった。その結果が、これだ。

 少年はクラス内で唯一、満点だった。二位は六五点。赤点ラインの三十点を超えたのも、半分に満たない。そんな状況だったせいか、女にすぐに名前を把握された。少年もまた、女の小気味良いテンポで進む授業とわかりやすい話に魅力を感じたゆえに取った満点だ。ある種の、奇妙な共犯意識のようなものが、二人の間で生まれた。

「満点を取れる生徒もいるのだから、決して難しすぎるテストではなかったはずです。基礎をひとつひとつ、丁寧に理解して、積み重ねていけば、必ずたどり着けます。階段をのぼるのと同じこと。学びにエレベーターなんてないのです」

 少年だけが、女の言葉をよく理解した。



「前の学校で、なんかやらかしたらしいよ」

「げ、まじかよ」

 女は赤点事件以後、赴任して数ヶ月で嫌いな教師ナンバーワンの座を得た。意図したことではないだろうが、その立場を厭う様子もなかった。

 少年は一学期の中間試験の満点で概ね満足し、期末は八割か九割くらいで良いかと手を抜いた。思惑通り、八十五点だった。

「どうしたの?」

 少年はテストを受け取る時に、そう声を掛けられた。なんも、と軽く返事をして終わった。

「だからさ、生徒とちょっと、関係があったとかどうとか」

「なにそれガチじゃん。本物の不祥事じゃん。教師続けられんの、それで」

「られる、みたいだね」

 一学期の内に噂はひろがり、夏休みは一度落ち着き、二学期に再燃した。

「あいつだけ満点なんておかしいとは思ってたんだよな」

「高校生が枕営業ってか」

「あははは。まじしんどい」

 少年の二学期の中間テストは、一学期と同様、満点だった。クラスの平均点も六十点と、女のテストはようやく生徒の学力とバランスしてきていた。だが、少年の一学期の満点の記憶は、クラスメイトの脳裏に鮮烈に焼きついていた。噂が信憑性をもって語られたのも、それが原因だった。

「あなたにその気があるなら、私が個人的に指導してもいいわ。真面目に」

「そんなことやってるから先生は変な噂を立てられるんだよ。ちゃんと自分で気をつけなよ」

「原因と結果なんてそう明瞭なものではないし、なにか一つを捉えようとすると、べつの一つを捉え損なってしまうのが、物理学の本質なの。私の行為とその結果に必然性や再現性などない。出来事っていうのは結局、どれも一度きりなんだから」

「わかるようでわからないな」


 三学期に女の退任が決まった。

 少年は卒業し、国立大学の理学部に入学した。基礎物理学を学ぶために。原因と結果、実験と再現、自然の斉一性。違う、少年の学びたいのは、不確定な振る舞いと、波と振動のはざまで揺らぎ合うような、生死不明の粒子のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る