光陰をあゆむ

 雨の後の夜、水の中みたいに空気の粘度が高まって、うまく歩けないと感じることがある。湿度が高く、気圧と気温の低さがからだをぎこちなくさせるからだと自分を納得させるように考えてみてから、いや違う、と思い直した。

 女は三日間ほど身体の不調を感じていた。天気に左右されやすい体質であることに加え、ワクチン接種と、嫌な日が重なった。入念に準備をした上で迎えた初日、案の定熱が上がったものの、解熱剤で抑えた。二日目、三日目と倦怠感と腕の痛みは残ったものの、翌日に有給休暇を取ったこととが功を奏したのか、思いのほか長引かなかった。

 ——じゃあ、どうして?

 まだ痛む腕に触れると、注射した箇所の肌が少し張っているのがわかる。腫れている。

 女が調べたmRNAワクチンに関する情報には、転写や翻訳という言葉が並んでいた。mRNAのmはメッセンジャーを意味する。メッセンジャーが細胞内に運んだ塩基配列の手紙を、リボソームが翻訳して抗原を産生することで免疫の訓練が行われる。塩基やタンパク質の手紙には、太古の言葉や記憶が隠されている。有史以前、生物と無生物の曖昧だった世界の言葉。そんな言葉を左肩に感じる度、女は奇妙な胸の高鳴りを感じた。

 駅から家までの道を歩くのすら億劫に感じ、途中の居酒屋に立ち寄った。感じる気怠さの理由を蔓延るウイルス押し付けてしまえば楽になると思ったのに、そうは問屋がおろさない。女は一計を案じ、酒に紛らせて勢いで帰ればいいという浅慮に任せた。

 考えるのすら億劫になるほど、空気がとろりとしていた。

 カウンター席に座ると、お通しの煮ひじきとジョッキ一杯のビール、枝豆が出された。こうして立ち寄るのは始めてではない。店主は女の顔を覚えているため、黙っていても同じものが出てくる。女は、それ以外に頼んだことはなかった。

 ゆっくり三口ほど飲めば、それだけで酔いが回る。女はほとんど下戸であるのに、こうして外で飲むのが好きだった。とりわけ小さな居酒屋には境界線がないのが良い。店主も客も、どれも店の置き物みたいだと思った。あらかじめそこにあって、これからもそこにある。それぞれが帰る場所を持つ一人の人間だなどとはとうてい信じられなかった。酔いが回るとなおさらで、重たいまぶたの下からのぞく店内は虚構めいて、自分自身もその空間に相応しい置き物となったように錯覚する。すると次第に現実と古い記憶が混ざり合う。雨のにおい。隣のサラリーマンの食べるなますのにおい。覚えている。小学校低学年の頃のことだ。クラスメイトの家を訪れた時のにおい。幼気な、考えなしの同情と気まぐれで、彼女を遊びに誘った。どうして家へ招かれたのかわからなかった。玄関に衣類やゴミ袋が散乱していた。靴をどこで脱げばいいのかがわからない。彼女が脱いだのと同じ場所で脱いだが、本当は靴のまま上がりたかった。部屋は二つ、ダイニングキッチンには冷蔵庫や炊飯器、電子レンジと、家電製品が所狭しと置かれていたが、主に使われているのは電子レンジと電気ポットだけだ。冷蔵庫は開かないし、炊飯器は開いたまま干からびたご飯が中に覗いていた。すえたようなにおいがそこここに充満していた。時々、感じていた。クラスメイトからヨーグルトのような酸っぱいにおいがするのを。週に二、三度は同じ服を着ていた。違う服でも、洗濯はしていないらしい。他のクラスメイトが近寄ろうとしなかったのは、なんとなく理解し始めていたからだ。彼女は違う。彼女だけは違う、と。

 お愛想を頼んだわけでもなく、伝票が無言で差し出された。女はお代を置いて店を出た。

 虚実のあわいにある濃密度な記憶が、空気を重たくする。女の記憶は断片的で、どれほどの真実がそこに含まれているかなど、もはや重要ではなかった。今になって感じられるのは、クラスメイトの家で感じた確かな不快感と、微かな罪悪感だけだった。汚い。臭い。醜い。見窄らしい。卑しい。幼い少女の前に突如として現れたグロテスクな惨状を、運命だと甘受するほどの諦念は備えていなかった。だから女は覚えている。雨の度に思い出す。あの日に本当に雨が降っていたのか、今では確かではない。何度もこうして反芻するうちに、雨の後の夕暮れと結びついた。となれば、日が暮れるまで一緒にいたのか。

 身体は重い。酔って覚束ない足元の動きは、地面と自分が繋ぎ止められているかのようだ。坂道をのぼるときの歩幅で、のそのそと歩く。清らかな水がなにもかも洗い流してくれたはずなのに、かえって多くの汚れが底に降り積もっている。

 一歩。街灯に群がる虫を見上げ、また一歩。カン、カンと光にぶつかる音が聞きながら、また一歩。細かな光の粒子を耳で掬いながら歩く。それでも涙は止まらなくて、『私』がなぜ泣くのかわからないまま歩く。女の心を見透かしたかのようなぼんやりとした月と、その光に気圧されて微かなにまたたく星々を見ないまま、一歩、一歩、また一歩、女は家へと足を出した。カン、という音とともに虫が落ちた。

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