推しのいないこの世界で
部屋を飛び交う粒子の隙間を埋めるかのように、霧吹きで葉を濡らした。ピレア、ペペロミア、ワイヤープランツ、シェフレラ、ポトス、夜になると空気が乾燥し、寝ている間に喉が痛くなる。観葉植物を置いて、寝る前に葉水をやるようになってから、女の症状は軽くなった。
飽和水蒸気量は気温に左右される。気温が高くなれば、飽和水蒸気量も大きくなる。空気にとって水蒸気の入り込む余地が増える、そこにはエネルギー、熱が必要だった。薄暗い夜がカーテンの隙間からじんわりと染み出し、部屋に忍び込んでくるのがわかる。女には熱が足りない。喉が乾燥して痛くなって、声が出せなくなる原因だ。近所の公園に散歩に行き、秋の朝の心地よさのなかですら、痛みを感じる。百日紅にとまる四十雀が鳴くのを聞いて嫉妬する。夕暮れと共に始まる鈴虫の大合唱を聞いて嫉妬する。私も、大声で歌いたい。だが、女にはどうしても熱が足りないのだ。
「見て、これ」
「なに?」
休憩時間に決まって見せられるのは、スマホの画面上できらめくような笑みを浮かべる同僚の推しだった。
「デジタルトレカなの。うちの推しだけでも二千種類以上あってね、全てがNFTで管理されてるから一点もの。っていうと正確じゃないかな。もちろん同じ写真や動画もある。限界数量が設定されてるって感じかな。だからリアルと同じで、欲しいやつが出るまでガチャか、トレードかってなる」
「詳しいね。背景知っちゃうと嫌にならない?」
「戦うには背景も知った上で戦わないと、適切な戦術も取れないじゃない?」
——強い。
女は同僚の説明を聞きながら、資本主義というものがいかに貪欲で意地汚いかを思い知らされる気がした。背後にあるのは人の欲というより、消費と生産の循環のシステムで、組み込まれた人々は永遠に歯車となってその回転から抜け出せないような、そういう欠乏と充足による依存性なのだ。
——怖い。
恐怖と羨望の入り混じった感情で、熱心に語る同僚を見やる。
「どうしたら最小のコストで、最大の成果が得られるか。まあ仕事と同じね」
「確かに」
仕事外の趣味と呼ばれる分野ですら、仕事のように作業としてこなしている。そこでは人と物と物との間に摩擦が生じ、結果として熱が生じる。人々は、求めたことで生じた熱なのか、熱があるから求めるのか、という鶏と卵の論争すら必要としてはいなかった。熱のうずに巻き込まれて、ただ忘我の領域において恍惚とした快楽に浸れば充足される。女の知らない世界では、そうして人々は日々魂を消耗しながら、愛に似たなにかに溺れて人生を蕩尽するのだ。
——ずるい。
「それでもね。推しの笑顔を見た瞬間や、声を聞いた刹那に、全身に走る震えがうちはどうしても忘れられないの。何度も、何度も、繰り返しそれを感じたくて。薬みたいなものね」
「過激だね」
「なにかに酔わなきゃ、あまりに生きにくい世界だもの」
女は仕事帰りに行きつけの花屋に立ち寄った。切り花を一輪、気分が良い時に買うのだ。女は同僚の熱に当てられた。体温がいつもより高く、店の入り口のセンサーで、三十六度九分と、入店ぎりぎりだった。
「これ、ください」
「かしこまりました」
ちょうど彼岸花の季節だった。
鮮やかな紅色の花が放射状に六つ広がり、中央から細いおしべとめしべが伸びている。くるりと弧を描く細い線が、その花の可憐さを引き立てている。
「ありがとうございました」
西の空は橙に染まり、とろりとした蜂蜜のような密度の空が、まるごと夜に飲み込まれようとしていた。
秋分。女は真西の空を見た。紫色の低い空に、ただ一つ光る星があった。宵の明星、金星だ。
同僚がどうして熱く燃えているように見えるのだろうという疑問の答えが、女にはわかった気がした。ひらめきと共に、音楽が流れ出した。「ユーアーマイサンシャインマイオンリーサンシャイン」と口ずさんだ。明日は曇りだという。それでもきっと、彼岸花は咲いている。
——まだ、見つけてはいないけど。
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