誰かの言葉と女の手

"自分は自身の考えに忠実に生きたいと思う。

それは、他人も同様だろう。

だから、他人の生き方も認める。

そうして、敵が私に再び刃を向けることになったとしても、それは仕方ない。

そのように生きることが私の願いだから。"

ガイウス・ユリウス・カエサル


 二千年以上も前の誰かの言葉が、今を生きる一人の女の小さな手のひらに乗っているのを、不思議だとは思わないのだろうか。女のそんな疑問はたちまち消えた。帝国の礎を築いた男の硬質な言葉が、ごつごつとした感触のまま目に飛び込んでくる。不器用と言えるほどに無骨な印象だが、意図したところは覿面の効果が得られたのであろうことは、歴史上で果たした実績から明らかだった。だが、そんなことすら忘れさせる。ラテン語の見本、教科書とも称されることのあるその本は、いくつかの系統に分岐している。というのも、グーテンベルクの活版印刷から約千五百年前に著された作品で、写本という形でしか複製が作られなかったからだ。過程で多くの校正が加えられているのかもしれない。実際に二千年前、男の手によって書かれた言葉そのままだとは限らない。写本の過程でエラーが生じる。エラーの生じた写本を、また別の誰かが写本する過程でエラーが生じる。そうして複数に分岐した写本の数々が現在に残され、原本が残されているわけではない。

 ——進化みたい。

 女はリチャード・ドーキンスのmemeという言葉を思い出した。geneと対立する概念であるmemeは、gene(=遺伝子)が生物学的な自己複製子であるのにたいし、m文化的な自己複製子を意味した。

 生物間の個体を越えて継がれていく遺伝子と同じように、memeもまた個体間を通過し、環境に適応しながら変異していく。ダーウィニズムを基に編み出されたアイディアであり、後代の遺伝子が優れているから残されるのではなく、単に環境に適応したから残っただけ、という観点から見ると、現在に残されている写本の数々は、その時代に適応したから残された版なのかもしれない。

 だとしたら、男の言葉は本当にそのなかに残されていると言えるのだろうか。男の言葉ではなく、男を一瞬にして通過したmemeがその形を変化させて残っているだけなのではないだろうか。

 女は艶やかな文庫カバーの表面を指先で撫でながら、それが確かに今ここにあるものだという感覚を確かめた。紙、というよりプラスチックのような感触は、女が今を生きているということを思い出すには十分だった。

 あらためて表紙を見た。そこに書かれている言葉はラテン語ではない。翻訳だ。言葉を別の言語に完全な形で置き換えることはできない。この中に、男の精神を貫いたmemeはまだ息づいているのだろうか。だとしたら、それがたった今女の中を通過して、いずれ別の形で誰かに受け継がれていくのだ。

 ——人間の営みの途方のなさを書店で感じるとは。

 女は手に取った本を置くと、トイレに向かった。ざわつく心を一度落ち着かせるには、誰もいない空間で音楽を大音量で聴くと、ふわふわと浮き足立っていた体に重みが戻ってくる。

 二千年の時を超えて向こう側に赴いていた女は、ゆっくりとトイレの個室へと戻ってきた。ついでに用を足した。再びその分だけ軽くなった。


「僕らはただの容れ物に過ぎないからね」

「生物学的に? それとも文化的に?」

「両方だよ」

 男は、二千年前に生きた男とは違い、柔く、優しい声で女を包み込んだ。二千年前の男のような荒々しさはないが、理知的で思慮深く、穏やかに諭すような調子をはらんでいる。両者はまるで異なるようでいて、長い年月を経ても変わらない女に対する支配欲求が巧妙に隠されていた。

「運ぶ役割しか果たさない。過去から未来へと」

 まだ長い煙草を灰皿に押し付けるように消すと、男はソファから立ち上がり、窓を開けた。肌にまとわりつくような湿った空気がのっそりと吹き込んだ。天気が優れない。と同時に、部屋の空気も澱んでいる。煙草のせいだけではなかった。昨日から丸一日近く研究室で過ごしているせいで、二人の間に奇妙な連帯意識のようなものが生まれていたからというのもある。密度が高まっている。そんな気がした。

「だとしたら、私や君が生きていることにどれほどの意味があるのだろうか」

「さあね。それを見つけるために、僕は研究をしているのかもしれない」

「答えが顕微鏡の中にあるものかしら」

「それは、覗いてみなければわからないよ」

 男はゆっくりとデスクの方へと歩いた。女も立ち上がると、男の隣に座り、接眼レンズに顔をあてた。青に近い緑、緑、黄緑、黄、橙、赤。宝石や花のかわりにもらうとしたら、満点の星空が良いと思っていた。微生物が、それも悪くはない。女は男のやり口を知りながらも、なんとはなしに絆されても構わないと思った。

「綺麗ね」

「生きているからね。単なる容れ物に過ぎなくても。ウイルスとは訳が違う」

「ウイルスは生物には分類したくない?」

「したくないし、すべきではないと思うよ」

「なぜ?」

「なぜって……」

 女は男の表情が曇るのを見た。容れ物として中身の交換を繰り返す空虚さこそが、男にとっては生物の定義であり、ウイルスはそれにはあたらないといったところだろう、と女は推察した。結局男は答えなかった。女はそれ以上、問う必要はないと思った。


 二千年以上も前の男が書いた本を読む。一人で家で過ごす時間が、なにより大切に思う。ソファに置いた赤いカバーのクッションは、部屋のモノトーンの印象から少し浮いている。白と黒を基調にし、垂直と水平にだけわずかに色彩が取り入れられ、インテリアはいくらか凝ったものが多い。最高に過ごしやすい空間を目指した。バウハウス風、と女はそれを呼んでいた。有機性を排除したかのような、簡素で淡白な部屋は、なんとなく二千年以上前の男の文体に似ている気がした。合う。女は部屋と文章の相性に満足した。

 男は戦記の中で、男自信を彼またはその名前で記述している。著者が事実に基づいて記述したノンフィクションであるのに、虚構めいた雰囲気を醸している。著者が自らを「私」としないことで、かえって主体、主人公が全面に現れるというもの不思議だった。明らかに彼が主人公の物語なのだ。成功体験、失敗体験を織り交ぜながら、淡々と出来事、部族の特徴、土地の特徴、戦術、戦力などが記述される。漫画やアニメのようなはらはらするような展開は乏しい。徹底している。

 ——完璧なプロモーションだ。

 女はいつのまにか男に惹かれていることに気づいた。誰もが認めざるを得ない作品であるとともに、それを成した人物が実在しているとなれば、誰もが容易く魅了され、同時に数多の嫉妬を集める。男は魅力的であるが故に、多くの敵を持った。暗殺は彼にあらかじめ運命づけられていたのだろう。は歴史に禁物であり、また誰もが述べたくなるものでもあるが、女はもし彼が生きて統治を行なっていたなら、どんな世界が待ち受けていたのだろうかと思う。女だけではない、当時の歴史を知った誰もが、一度は考えたことはあるはずだ。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出した。当時はワインを飲んだのだろうか。ビールもあったのだろうか。水道橋が既に建設され、風呂が多くあったことが知られている。

 プルタブを上げると、プシュッと小気味良い音が耳に爽快に響く。外の鈍色の空が嘘のように、心のうちは晴れ晴れとしていた。読むうちに、女の中で何かが変わろうとしているのがわかった。memeが、geneが、遥かなる過去から語りかける男の言葉に応じようとしている。

『明日も、見に行ってもいいかしら』

 女はメッセージを送った。言葉は電磁波に乗って、宙をさまよい、遠くの誰かへと届けられた。容れ物のなかを無数の言葉が、思いが、ものすごい速さで通過していくのを、女は俯瞰で眺めているような感覚を抱いた。はぼうと、遠くの男を見ているのだ。

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