蝉の終わり

"苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。"

『三四郎』夏目漱石



 男は近所の図書館に行くと、十年以上も前のことを思い出した。


 学生時代に通った大学の図書館は風変わりで、セキュリティゲートが二階に設置されているため、一度階段をのぼってそこを通ってからでないと、一階の閲覧室には入れない構造になっていた。

 二階は常にブラインドがおろされていたが、一階は窓の近くに本が置かれていないためか、外の光が直接中へとさす。といっても、隣の講義棟と実験棟が太陽光を遮るため、思いのほか暗い。加えて、窓にそってローマ字のエル字の形に学習机が並び、試験前ともなればそこの席は勉強する学生で埋まる。本の保護という観点から厄介となる日の光も、窓から距離があいているのと、直射日光が入ることがないという二点から、これくらいなら適切な採光なのだろう、と建築を学びながら造りについてよく考えたものだった。


 男はその図書館が好きだった。一度階段を二階へとのぼってから、もう一度別の階段から一階におりる煩わしさは気にならなかった。その変な移動のせいでいつも、一階に行くと地下にいるような錯覚を起こさせた。入口は一階にあるもの、という考えが潜在的にあったのかもしれない。あるいは、二階で本を探すうちに自分が一階にいるものと勘違いしていたのかもしれない。

 とにかく、何度その一階におりても、なんとなく地下だと思ってしまうのだった。静かなひんやりとした地中で、蝉の幼虫が心に青い空を思い描くように、いつか自分も自由にさまざまな建築を設計するのだと、新建築という雑誌をコピーするたびに思ったのを、男は今でもはっきりと覚えていた。


 大学を卒業して長い時が過ぎた。男がその図書館に行く機会はなくなった。男は自分以外の人間が触れることはないであろうたくさんの書物に出会い、手に取り、実際に読んだ。

 例えばみすず書房のフッサール著『イデーン』や平凡社ライブラリーのハイデッカー著『形而上学入門 』などの難解なものから、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』やジョーン・G・ロビンソンの『思い出のマーニー』などの児童文学作品、さらには『ハックルベリーフィンの冒険』、『ガリヴァー旅行記』『クリスマスキャロル』『脂肪の塊』『アッシャー家の崩壊』などの近代の作品から最近の二十世紀の著作である『利己的な遺伝子』や『コウモリであるとはどのようなことか』『夜と霧』『サピエンス全史』『限界費用ゼロ社会』『城』『老人と海』『シーシュポスの神話』などと現代へようやく帰ってきたかと思えばいつしか『歴史』や『英雄伝』『神統記』『史記』『三国志』『封神演義』『水滸伝』など、真と偽や人間と神々、妖やらなんやらと雑多に混ざり合った古代の世界を覗いてみたりもした。

 要するに、男は講義にも出ず、手当たり次第めぼしいものを読み漁ったのだ。


 近所に、商業施設に併設された小さな図書館があった。

 蔵書は数万冊と少ないが、男にはそれで満足だった。ない本はリクエストを出せば近隣の図書館から取り寄せることができたし、それでもなければ購入してくれることがほとんどだった。五千円を超えない程度の本であれば自分で買えばいいが、高価な本はどうしても手が伸びない。買えば読む。大切にもする。だが、値段の高さがかえってその本の価値を損なわせるような気がした。そういう時に、お金という物差しと無関係な図書館こそが男の要求に応えてくれる最適な場所だったのだ。

 図書館をだらだらと歩きながら興味のひかれた背表紙になんとなく手を伸ばすというのもまた乙だ、と男は思う。

 出鱈目に手に取った本の中に、稀ではあるが、男にとって特別だと思える作品があったりする。人と人との出会いのように、人と本も出会うべくして出会うのではないかと、男は何度も感じた。だから男は、本を読む。人とあらたに出会い、交流するのをやめないのと同じく、本と出会い、関わり、刺激を受けることこそが、男にとって生きる上での喜びなのだ。

 如何にも読まれていないであろう、分厚い革の装丁の、古めかしい本を一冊、棚から取った。隅々まで綺麗に清掃が行き届いた棚は毎日掃除されているらしいことがわかった。ほこり一つ積もっていない。なにしろ、棚が綺麗だ。

 一冊いっさつがとても丁寧に、大切にされていることがわかる。わかる故に、なんとなくつまらなくも思う。これでは、本に眠るための暇と隙がない。

 学生時代、大学の図書館で感じたような、あきらかに数年(もしかしたら数十年)もの間、誰の手にも触れていないであろう本に触れているかもしれないのに、それが実感できない。幼少期の貸し出しカードのようなものがあれば、いつ、誰が借りたかを知ることができる。どれほど読まれたか、どれくらいの間その本が眠っていたのかがわかる。誰も読んでいない本だってある。些細なことではあるが、自分しか知らない、自分しか触れたことのない本というのは、いくらか胸踊るような心持ちがする。新品ではいけない。そこには長い時間が埋もれていなければならない。時間と共に中に記された言葉も熟成して、味が出るというものだろう。

 本が整然と並ぶ新しい図書館の棚に、男はわずかだが、不満を感じた。それでも、変化は必然だった。本を読む人が減り、本の持つ歴史や物語に耳を傾けるものが減った。

 寂しさは感じるものの、貸し出しカード時代のノスタルジーにはいつだって帰ることができる、それ以上に、いつでもインターネットを通じて古い本が無料で読めること、図書館の本を予約できること、検索できるなど、過去に類を見ないほどの利便性の向上があった。

 便利を手にしたことで失われたものがあるとしても、この便利を手放すことはもうできない。それでも——。


『この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。』


 図書館を出た。日が暮れ、外は暗い。街灯や店の灯りで、空がいっそうと暗く見えるが、星はわずかに見えるばかりだった。

 時間や空間の縛りを忘れ、男はしばらく本に没頭していた。

 地図の歴史の本。太古の地図らしきもの、文明とともに発展していく精確さ、政治的意図、歪み、錯覚、人間がいかに誤りやすいものかを教えてくれる。男は、自分が間違っていたのだ、と思った。単純なことだ。自分の見えている世界だけが精確な地図を描きうると考えていたが、実際は精確な地図と呼べるものなのこの世界には一つとして存在せず、地図は常に誰かの思いや願い、あるいは祈りのようなものが象られただけの創造物だった。一つひとつ、線を確かめていった。時間、歴史、その断片を地図に見出した。今を断面としてしか描き出せないはずの地図には、間違いなく時間が描かれていると思った。当然だ。実際に描かれているのだ、思いや願いは、時間そのものではないか。すべきこと、すべきでないことをわきまえてはいなかった。いくら後悔してももう遅い。

 降り積もった塵をあっさりと払い除けてしまった。過去との繋がりは、たとえ弱い光であるとしても、見えにくい未来をほのかに照らしてくれる。忘れていた。忘れたいと願った。そうした小さな一粒、一欠片が遠くできらめく夜空の星々のように男に語りかけた。遅すぎることはないと思った。

 ただ、ゆっくりと花が朽ちていくのを待つかのように、もっとも輝かしい時が廃れていくのを遠くから見ながら、男は手をこまねいて待つだけだった。過去が今に追いつくことを、未来を追い越して、新しい未来となることを。

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