色のない花と透明な鳥

 朝。路傍に咲く名も知らぬ花が、自らの色を大声で叫んでいるのを聞いた。男はついに頭がおかしくなったのではないかと一瞬だけ思ったが、視線を向けてみると、声はやんだ。自然の方から語りかけてくることくらいあるだろう、と自らを納得させ、再び歩き始めた。

 群青色の空は深く、陰鬱なほどに冴え渡っている。男が歩きはじめてから、どれくらいの時間が経っているだろうか。長い列に加わった時に、その一人に尋ねてみたことがあった。

「この先には、なにがあるのですか?」

「なにもありはしない」

 東の空から夜が迫る頃に、西の空は紅く色づき世界を焼き尽くそうと試みるも、いつもその火を藍色がすっかりかき消してしまう。公園のベンチに眠る人も、夜が開ければ歩き出す。夜通しで歩く人々は、ふらふらと眠りかけのまま、月明かりだけをたよりに暗い道を歩いている。近くに人の熱も、夜気に包まれて感じられなくなる。色を失った暗闇でも、どこかに今朝の花が咲いているのではないかと耳をすますが、もうその声は聞こえなかった。


 そんな夢の話を、男は妻にした。

「嫌な夢」

 そういいながらも、男を安心させようとしているのか、微笑しながら隙間から細い腕をさしだした。青い静脈が力なく肌のしたに沈んでいる。黄色味を帯びた肌はまるで人形のようで、今でもこうして息をしているのがなんだか不思議だった。赤い血。彼女の肌の下にそれが流れているのを想像してみるのも難しい。男はあらかじめ失うことへの心積もりを立てている自分の薄情に驚き、反射的に妻の手を強く握った。

「あなたは怖いのね」

 男はかさかさとした妻の手の下に、わずかばかりの熱を感じた。それが彼女が生きている、男がそれと確かめることのできる唯一の証拠だった。小指のささくれに気がついた。するとそれが途端に意識の中心に座を占め、妻の言葉が耳から耳へとすり抜けていく。

「私が死んでも、あなたの人生は続くの」

 窓の外の桜の葉は色づき始めていた。木の枝にとまったのはスズメより少し大きく、鳩よりは小さい鳥だった。葉陰でぱたぱたと羽をはためかせた。赤らんだ葉が二、三枚散った。青い背景は夢の中と大差がないように見えた。なぜ、夢の中でくらい幸福な時を過ごせないのだろう。苛立ちに似た感情が波になって男を覆うと、綺麗に思考を洗い流した。

「そうしたら、なにも残らないじゃないか」

「馬鹿な人」

 また、妻は微笑した。


 断片でしかない。

 記憶の一つひとつは雨粒のように細かく、絶え間なく空虚な宙から降り注ぐ。雨を線として見てしまうのは、表現としての描かれた線で降る雨のせいか、あるいは降る雨を線として認識してしまうのは人間の自然なのか。などと意味のないことへと思考がずれていく。

 豪雨のなかで、にがにがしい思い出が押し寄せてくることが、線であるか粒であるかなど、どうでもよかった。

 視界に映る光景がふるえるくらいに、体は冷え、体温と気温の差異が小さくなってからだが溶けていく。颯爽と走り抜けていく車のなかで、男女が外の雨など気にもとめずに笑みを浮かべていた。約束の時間を過ぎても、誰も来なかった。約束した片割れがいないのだから、誰も来ないのは当たり前だ。むしろ男は、来ないことを知っていたからこそ、迎えにいくつもりだった。

 ——でも、どこへ?

 街に迷い込んだ狼たちは、ネオンの隙間を縫うように左右に揺さぶられながら、飢えながら、獲物を探し歩いている。男は取りこぼされてしまった。狼たちの狩りのように、生を持続するためだけに奪うことでどこかに意味が生じるのではないかという

幻想にひたれるほどに、軽薄ではいられなかった。

 ——いや、逆か。

 ひたれないほどに軽薄だった。男にほとんど質量はない、色もない。当然ながら光もない。足に力が入らずとも、一歩前にそれを進めてみることはできた。不思議な感覚だった。そこにいるのにいないような感覚で、大きな木の下へと歩いて行った。なんの木かも知れない、幹の太い、周囲に大きく枝を張り出した傘のような木だった。雨宿りくらいにはなるだろうと思った。雨粒に混じった思い出も、いくらか遠ざかるだろうとも思った。


「嘘つき」

 君のために、新しい仕事を見つけてきた。そういった矢先に、鋭い言葉が男の胸を貫いた。嘘つき。そうだ。だが、少しくらいその嘘に付き合ってくれてもいいではないか。男は記憶のなかに何度もあらわれる女の容赦ない言葉に苦しみ続けた。

「音を絵に描くことなんて、できるのかな」

 最初にそう言ったのは、いつか男の妻になる、その女だった。音楽の教師だった女は、こっそり男を音楽室へ誘った。美術の教師だった男は、女の誘いをそれとわかっていても拒めずに吸い込まれていった。彼女がピアノを弾きはじめると、色と光の鮮烈な印象がまぶたのうらで閃き、線とも粒ともいえないような連続と非連続の中間のような赤や青や黄や緑がうねりとなって男を飲み込んだ。

「できるというか、なっているよ」

 秋の暮れ、まだ妻ではなかった女は、ほんの数分間の演奏で、男を光と色の世界に閉じ込めてしまった。そこにはすべてがあった。においやはだざわり、舌にひろがるあまみや、肌に触れる冷たい空気、空腹感や満腹感のような内的で実際的な感覚すらもあますことなく世界となっていた。パン、と弾かれた音が、パパパンと同時に弾かれた音と一体になって全体性を持ち、断片的なそれが連なることで、点が線、線が面、面が立体、立体が時空間へと押し広げられていくような。

 感動していることにすら男は気が付かずに、頬を流れる涙があごをつたい、ワックスで照る床にしたたり落ちるまで、自分が泣いていることすら知らずにいた。中庭をはさんで向かいの校舎を夕日が照らし、赤く染まっていた。

「じゃあ、次はあなたの筆ね」

 退職して参加したグループ展は好評を博した。個展も開いた。順調に進んでいるように見えたが、絵が売れることはなかった。収入は減り、生活が苦しくなっていった。女との付き合いは続いていた。だが、互いの存在感が薄れ、距離ができたというより、いつのまにか与えうる影響が消えてきたという感じがした。このままでは失ってしまう、そう思ったからこそ男は職を求めたのだった。

「絵を描かないあなたを、私が好きでいると思うの? それ以上に、絵を描かないあなたを、あなたが好きでいられるわけ?」


 自動ドアが反応しなかった。雨で濡れている人間は、体温が低過ぎて赤外線も透けてしまうのだろうか。なかなか開かないコンビニの自動ドアの前で、ようやく男は寒いと思った。雨がやむとともに、記憶は雲になって風に消えた。

「いらっしゃいませー」

 男はいまさら傘を買った。店員は濡れ鼠となった男を怪訝な表情で見たが、実に機械的に仕事をこなした。男も同じだ。店員のように実に冷淡に、自分を自分から遠ざけることを器用にできるようになっていた。望んでなどいなかったのに。

 コンビニを出た。男は傘を差した。骨組みが邪魔だったが、透明を通して彩りゆたかな音が聞こえてくる気がした。遠くの鈍色の雲から垂れる雨が描くのは、空の端から端へとかかる大きな虹だった。その弧に沿うようにして、やはり名の知らぬ鳥が、ゆるやかに飛んでいった。どこからか下手なピアノが聞こえて来た。子供が練習しているのだろうと思った。色がある。光がある。言葉があって、意味がある。下手なピアノが饒舌に語りかけてくるのを、耳を塞いだところでのがれることなどできないのを、男はいやと言うほど知っている。生のありとあらゆる可能性を組み尽くすことを欲した女の、貪欲なまでの美への憧れが、どんな一音にでも染み付いて消えない。地下に猛然と伸びる黒い根が世界中の地下をつないで、どんなに暗いところにでも、微かなあかりを投げかける。死んでも死なない。憎らしいほどにそこに生きている。時間が経って、寂しいということすら感じさせてくれない彼女の残酷さを呪いたくなる。どうして君はそうも自分勝手に生きることができたのかと問いたくなるが、本当に自分勝手だったのは自分だと、とうに男はわかっていた。

 ビニール傘越しの空を仰いだ。昨日まであったはずのなにかが、そこにはなかった。だが、昨日もあって明日もありつづけるものも、そこにはあった。地の底から、音楽が聞こえてくる。下手なピアノは鳴り止んだ。それでもまだ、遠くの音楽がなり続ける限り、男は再び筆を手にするしかほかにない。かすみがかったみたいに曖昧な視界の表面に海が浮かんで、見たこともない色の花が水中を泳いで、何度もなんども男に透明な光をさして自由へと誘う。自由。空。透明。水。流れ。雨。孤独は消えていた。男はどこまで続く海のなかを呼吸もせずに泳ぎ続けることに、もう恐怖を感じる必要はないのだと思った。

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