痛みと息をして
縁に座る女の髪に、桜の赤い葉が落ちた。女はそれに気がつくと、ふと上を見上げた。秋の空は高く、青い。髪にひっかかったままのそれを取ると、手に持って矯めつ眇めつ見回す。葉脈が葉の端までびっしりと行き届いている。地面から吸い上げた水や養分が、この葉の先端までをも満たしていると思うと、植物というものもは動かずとも確かに生きているのだと実感した。
「なにしてるの。冷えるよ」
「うん。熱いお茶が飲みたいな」
男は女の悪戯な笑みを見せられ、仕方なしに奥の台所へと引き返した。
庭の打ち固められた土の上を、桜の葉が覆っている。女は踏石の上に置かれたつっかけを、器用に足の指先でひょいっと持ち上げると、手に持ち替えて、砂を払った。反対も同じように持ち上げた。砂を払い終えると、そのまま両足にはめ、赤い庭におりた。かさ、かさ、と葉を踏む音を聞きながら桜に近づく。ごつごつとした黒に近い茶色い肌に触ってみるが、無機物のように硬い。微かに熱が感じられる気がするが、自らの木に対する知が、その内に魂を与えるだけなのではないかと訝しむ。
——はて、どうしたものか。
女は耳を当ててみるものの、鼓動は聞こえなかった。
樹木は呼吸をしても、心臓は持たない。かつて、人の心は胸にあった。恋をすれば速く脈打ち、安らげば遅く脈打つ。昔の人々が、心臓に心が宿ると考えたのも不思議ではない。
心のありかは脳だと考えられてはいるが、それもまた疑わしい。心、というものがどこかにあるのだろうか。それは記憶のことか。感情のことか。思考のことか。自意識のことか。
今度は、鼻を近く寄せてにおいを嗅いでみた。土のにおいに混じって、温い木の香りがした。根本から梢を見上げると、放射状に枝が張り出しているのがわかる。一見するといたずらに伸びているようだが、肌に触れながらしばらく梢を眺めるうちに、どうやら太陽の光を求めて伸びていることがわかった。
光を食べて大きくなる。光合成は、光のエネルギーを利用して、水と二酸化炭素から、糖分を作り出す。その植物を動物が食べ、人間が動物を食べる。地球に生きるあらゆる生き物のほとんどは、太陽を食べている。
葉がもう少ない。梢から漏れる光がまぶしかった。
「ほら、淹れたよ。こっち戻って来なさい」
「はーい」
と言ってからもしばらく桜に触れていたが、やがて離れ、ゆっくりと男の元へと戻った。
縁に用意された盆には、茶だけでなく、菓子まで載せてあった。
「こりゃあ、至れり尽くせりだねえ」
「お褒め言葉、ありがたく頂戴いたします」
「嫌だねえあらたまっちゃって。私はあなたを置いて行ったりしないよ」
「別に、そんなこと思ってないよ」
女は再び縁に腰掛けると、男も肩を寄せるようにして隣に座った。
「なにしてたの?」
なんとはなしに男は問うた。男は湯呑みを手にし、息を吹きかけたが、まだ口をつけようとはしない。
「木ってさ、生きてるのかなあって思って」
「うーん……」
男は茶を飲まないまま、盆に戻した。眉間に皺を寄せて唸る。そして呼吸がとまったかのように長いあいだ沈黙してから、大きく深呼吸をした。
「酸素が必要なのは、植物も動物も同じだね」
「あはは、そうだね。呼吸をする。それは生きてる証拠かな」
「うーん……」
男はいよいよ腕を組んで、俯いた。
女は楽しそうにその様子を眺めていた。実際に面白いと思っているのだ。女はふと湧いた疑問や感情を、そうして男にぶつけてみるのが好きだった。男はこうして、いちいち真剣に考えてしまうのだ。
「痛み、というのが植物にあるらしいね」
「痛み?」
うん、と男が頷いた。
「植物には神経系ってないけどさ、師管を通じて化学物質が全身に伝わることで、神経系に近い役割を果たしているってのを、なにかで読んだ気がする。だからさ、虫に食べられたら、食べられてますよって全身に信号が行き渡るんだってさ」
「やばいよーってこと?」
「そうかな。でも、どうせ動けないのにね」
「そうなのか……」
想像していたのと違う方向へと進んでいくのを、女はただ楽しんでいた。太陽がかげり、雲に隠れた。唐突に冷たい風が二人の間を抜けて、互いにさらに身を寄せた。二人して湯呑みに手を伸ばした。
「痛みと呼吸。そのふたつで生きていると言えるのに十分なのかな」
「どうだろ、僕にはわからないな。少なくとも痛みは、僕ら人間にとってとても大きなものだという気はするけど。痛みのない生なんて、だって、あり得ないでしょう」
——ああ、そうだ。
女は男といると、どうしても自分の痛みを忘れてしまう。痛み。奥深くに隠している傷。冬が近づくと、不思議と疼く。それでも、と女は思う。
——やっぱり、生きているんだ。
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